ピピピピピ。
「やばっ!!」
目覚ましの音で飛び起きたリカは、タイマーでついたテレビを見て青くなる。朝の情報番組がとうの昔に始まっていて、目覚ましのスヌーズは何度か目のようだった。
飛び起きたあと、バスルームに駆け込む。髪や顔を整えて、今日着る洋服を考える余裕もなく、天気予報だけは視界に入れながら化粧を済ませる。
今日も寒いという予報に、パンツとカットソーにニットを合わせた。
今日は社外の打ち合わせもないはずなのでラフでいいはずだ。
ぎりぎり家を出る時間は間に合うが、咄嗟に掴んだ携帯は充電が切れていた。
「ああっ。もう電話もできない……」
とにかく、おはようだけでも連絡がしたかったがそれもできないことに、苛立ったがすべては自分のせいだ。
持ち歩ける充電器は鞄に入っているから、ひとまず戸締りを確かめて家を飛び出した。
局について、途中で買った朝食代わりのヨーグルトをデスクにおいて、どさっと椅子に腰を下ろす。
「間に合った……」
「おはようございます。稲葉さん。珍しーい」
「おはよ。何が?」
珠輝が自分の席ではなく、大テーブルの方でほかのスタッフ達と話していたところから顔を上げた。
「だって、稲葉さんにしてはぎりぎりだし、髪はまだ濡れてるし、服もイマイチだし、はっきり言って寝坊ですか?」
「うん……。だって、昨日あんなにばたばたしてたし、そのまま帰って寝ちゃって、変な時間に目が覚めたりしたからもう……。あ!充電しなきゃ」
そう言えばと思い出したリカは、充電器を取り出して、携帯用のそれからコンセントに差し替えた。
ケーブルをつないだ状態で、電源を入れると、溜まっていたメールが一気に受信し始める。
「ああ……。やっぱり……」
大祐からは、朝にもメールが入っていた。携帯がオフになっているところから忘れたのだろうとあたりを付けたらしく、局に行って、携帯を見たら一応、連絡だけはくれと入っていた。
とにかく充電しないと電話をかけることもできない。
ひとまずメールを打つつもりで画面を立ち上げていたところに、早々と現れた映像編集のスタッフから昨日対応した分の追加処理について呼び出されてしまう。珠輝と共に話をしているうちに、ざわざわとスタッフが揃いだして、気が付けば打ち合わせの時間で追い立てられるように移動したリカは、仕方なく、携帯をデスクに置き去りにしていった。
打ち合わせを終えて帰ってきたリカは、今度こそ大祐にメールを入れようとして、携帯を手にする。
朝、途中まで入力しかけていたメールがそのままになっていて、もういっそ電話した方が早いと、充電の終わった携帯を手に空いていた会議室へと移動した。
気持ちばかりが焦って、大祐の番号を選んでタップしたところまではよかったが、コール音だけが響いて、なかなか出る気配がない。
都合でも悪い時間だったかと電話を切ったリカは仕方なく、もう一度メールを打つと今度こそ送信ボタンを押した。
『大祐さん。ごめんなさい!昨日は帰ってきて、疲れていたのか、眠くてそのまま寝てしまって、携帯の充電も切れていたのでなかなか電話ができませんでした。朝も寝坊して遅刻すれすれ。本当にごめんなさい。またあとで電話します』
それから昼へと向かったリカは、一緒になった藤枝とくだらない話で盛り上がった後、午後の仕事を済ませてから今日の帝都イブニングのスタンバイに入った。
リカが電話をかけた頃、大祐は地方新聞の取材を受けてハンガーを案内していた。
「どうですか。やはり、今でもあの頃のことをおっしゃる方はいらっしゃると思うんですけど」
「そうですね。いまだに事情をご存じない方は、どうしてあの時、とおっしゃる方もまだいらっしゃいます」
仙台に本社を置く地方紙はブロック紙ではあるが、特色を持って編集されており、地方紙としての弱点はあるものの震災の時は、翌日には少ページ数ながら新聞を発行したことで、一躍全国に名をはせた新聞社でもある。
それだけ地元、そして東北に密着した地元紙の取材だけに、何度目かの取材で、相手も突っ込んだ質問をしてくることもあり、気を使う取材先だった。
決して、偏らない記事を掲載してくれる新聞でもあって、気を使う、といっても力が入るという方が正しい。
繰り返しの問いかけにも嫌な顔をせずに、丁寧に答える大祐は、記者にも評判は良かった。
「毎度、同じような質問ばかりで申し訳ないですね」
「いいえ。そんなことはありません。同じような質問でも、前後関係で随分かわりますから」
いまだに受ける風が冷たいこともあれば、温かくなることもある。また、風を受け止める方も、きれいに受け流せる手段を得ていることもある。
だからこそ、何度でもできる限り取材は受けるし、同じ質問だろうと丁寧に回答する。
「空井さん、少し雰囲気が変わられましたね。以前、お邪魔した時はもう少し、こう……悲劇の王子様みたいでしたけど」
「ごほっ……。悲劇の王子ってなんですか、それ」
記者は、ベテランの女性で、大祐よりも一回りは年上である。学校の先生か、保険のおばちゃんか、というあたりのいい雰囲気を持つが、目をつけるポイントは鋭い相手である。そんな相手に、取材内容を離れれば大祐が口で敵うような相手ではない。
「あら。そうですよお。一年前はもう少しささくれた雰囲気もあったのに、たった一年で随分変わられたわ。やっぱりご結婚されたのが大きかったねぇ」
「えっ!!桜井さん、自分、結婚したことお話しましたっけ」
昨年も、多少時期は違えど、同じ記者の取材を受けている。その相手に、結婚したことなどわざわざ知らせることもないし、今回も話した記憶はなかった。
相手は朗らかに笑って、大祐の左手をそっととった。
「おばさんの目は鋭いのよ?ほら。この指輪。去年はなさってなかったし、あら、王子にもお姫様が現れたのねって思っていたの。そしたら、もう基地の中、どこへお邪魔しても空井さんのお話になると皆さん口をそろえて」
可笑しくて仕方がないという風に笑った相手は、その時の様子を思い出す。
『空井、惚気ていませんでしたか?あいつ、結婚したもんですからもう、基地の中じゃ誰かれ、構わずに惚気て歩くんですよ』
『取材中、携帯気にしてませんでしたか?愛しの嫁さんから連絡がよく入るみたいで、メールとか電話が来ると周りは一目瞭然なんですよ』
「なっ!!何か余計なことを聞いてないですよね?!」
「ええ。皆さん、空井さんがとても愛妻家だってことくらいしか教えて下さらなかったから、私、いつ空井さんが惚気てくださるのか楽しみにしてたのに」
同行している若い男性カメラマンも苦笑いを浮かべながら、わざとカメラを構える。勘弁してください、と片手をあげてカメラをよけた大祐は、不意にその顔を崩した。
「残念ながら離れて暮らしてるんですけど、東京でテレビ局のディレクターをやってる人でめちゃくちゃ可愛いんですよ」
あ、見ます?と自分から言い出して、身分証明を入れているパスケースを胸元から出すと、件の二人でピースをしている写真が現れた。本当はその後ろにもっと新しい写真も増えてはいるが、最近は携帯に入っている方が多くて、ひとまず見せるにはこの写真が一番好きだった。
「あらー。可愛い奥様。可愛いというより、お綺麗ねぇ。これじゃ、東京に置きっぱなしで空井さん、心配なんじゃないの?奥様、もてるでしょう」
「そう!!そうなんですよ!本人はまったく自覚がないんですけど、もう、心配で仕方がないんで、2年ぶりに再会してすぐに結婚したんです!」
「ドラマチックねぇ。そのお話で記事一本行けそうだわ」
微笑ましそうに聞いていた相手の一言で、大祐は、はたと我に返る。そして、やんわりと記事にはしないでほしいと伝えた。
「僕らの話は確かに記事にするには、起伏があって面白いのかもしれませんが、自分と、彼女の立場だからこそ、これからの仕事が公正な目で見られなくなることもあるので、申し訳ありません」
「わかってますよ。そのくらいドラマチックだということよ。そういうの、田舎のおばさんは大好きなの。今度またゆっくりとそのお話、取材抜きで聞かせて頂戴ね。さ、行きましょう。今日は取材のご協力ありがとうございました」
歩きながらの話ではあったが、聞き上手と言うのか、短時間で大祐の話を聞き出すには十分な手際で門の傍まで行くと、カメラマンの運転で記者は帰っていった。
ゲートを抜けて車が曲がって走り去るまで見送った大祐は、ようやく終わったと、ポケットの携帯に手をやる。
途中で鳴っていたのには気付いていたが、ちょうど話の最中で出るに出られなかったのだ。
「あ。やっぱり……」
リカからの着信と、メールを読んだ大祐は、仕方ないなぁと小さく笑って、ほっと一安心すると、建屋の中へと入っていった。