おおよそ、日曜までの話はリカにもわかった。
何から言えばいいのか、迷っていると、大祐の方が繋いでいたリカの爪を何度も指で撫でる。
「あの電話で、リカはなんで泣いたの……。俺が連絡しなかったから怒ったの?」
急に連絡が取れなくなった自分を心配て、怒ったのかと聞くのは、わかっていてもいい気はしない。口に出した瞬間、自分で言っておいて、胸を掴まれたような気分になる。
単純に言えば、今までほかのどんなことも怖いと思わなかったのに、今は怖いと思う。
「やっぱり、怖いな。リカにどう思われてるかと思うと……」
「違う!!違うよ?私だって、大祐さんがきっと忙しくて、平日は携帯買いに行けないんじゃないかってことくらい想像できたし、だから週末にでも出かけるんだろうなって思ったよ?だから、家の PC にメールしたし、そのうち遅くなってごめんって電話くれると思ってたから!だから、こっちから行って、すぐ携帯くらい買いに行けばいいって……、思って……」
あの瞬間の、血の気が引くような真っ白になる感覚を思い出して、喉が詰まる。駄目だ、泣いて話したら、大祐を泣くことで責めて、なし崩しにしてしまうだけだとわかっていても、見る見るうちに盛り上がってしまった涙はまつ毛の間を転がり落ちた。
冷静になったと自分で思ったのに、脆くも崩れてしまう。
「……むこうに……来たの?」
喉の奥に何かが絡まったようにうまく声が出なかった。
指先を撫でていた手が止まる。
「……」
「家に、来たの?」
「行ったよ?大祐さんが、ちょうど部屋から出てきた。その大澤さんていう人と」
どこかで覚悟はしていた。
―― そうか。それか……
目を閉じた大祐を見て、リカはようやく、押し込めていた感情をぶつけだした。
「信じるとか、信じないじゃない!疑ったりなんかできなかったよ?ただ、ただ……。びっくりして、気持ち悪くなって、頭の中が真っ白で何も考えられなくて、すぐにタクシー捕まえて、引き返して!新幹線乗って、馬鹿みたいに日帰りしただけ!部屋から出て、すぐに車に乗って走り出して。その人と、話してて、私にはちゃんと話すからって言ってた!私、……わたしは」
大祐からの連絡を待つしかできなかった。
冷静に話をしようと思っていたのに、止まらなくなった涙はもうどうしようもなくて、感情の波と同じようにリカの手を離れて、勢いだけが強くなる。
目を伏せて、黙って聞いている姿が嫌で、どんどん早口になって、声が大きくなる。
「でも、家に帰ってから、そんなはずないって自分に言い聞かせた!せめて、メールでもいいから、どうして連絡してくれなかったの?家のパソコンからなら、携帯がなくても連絡できたよね?……私と……話したくなかったのかと思っ……」
「そんなわけないよ。俺が、いつでも携帯なんてすぐに買えると思ってたし、そんな何日かで立て続けにごたごたすると思ってなかったのが悪かったんだよ」
「そういうことじゃなくて!……ただ、話してくれればよかっただけなのに……。連絡くれてればよかっただけなのに……。私……」
まるで童話のようだ。幸せだった時は、口から出てくるのはどんなことでも幸せで宝石のようだったのに、こうしていると止めどなく黒い不気味なものが次から次へと溢れ出てくる。
指の先だけをずっと握っていた手が、ぎゅっと手を握りしめた。
「……ごめん」
眉間に深い皺を刻んで口を開いた大祐の目がリカを見つめた。
「後回しにしたわけでもないし、どうでもいいと思ってたわけでもないよ。でもそう思わせたのは俺だから、ごめん」
「なんで……。なんで連絡してくれなかったの。その人が可哀そうだったから?その人のことでいっぱいだったから?大祐さんが優しいのはわかるけど、初めに話してくれてたらこんな風に……」
ならずに済んだのに。
いつもなら抱きしめてくれているはずなのに、それもなくて、指先だけを何度も握りしめる。その距離感が、余計にリカには堪えた。こうして、みっともなく責める自分に飽きれてるのかもしれない。
可愛くない自分だから。
「私だったら……私が逆の立場で、そうしたかわかんない。同僚の男の人がそんな風に言ってきたら」
どうしただろうか。同じように話は聞いても、即座に避けたかもしれない。危険と判断して。
どうして大祐はと思うと、繋がれた指を振りほどきたくなって、思い切り手を引いた。
振り払おうとして思い切り引いた手は、大祐の手を振り払いきれずにどこをどうしたのか、大祐の手の甲に赤い筋を残した。
引いた手に引っ張られた格好で、身を乗り出した格好になった大祐は、ぎこちなく体勢を立て直す。そこから先に近づいてこないことが悲しくて、ぱたりとリカの手が落ちた。
「大祐さんがわからないよ……」
自由なもう片方の手で、涙を拭ったリカは、何の反応も返ってこないことに自分で自分を追いつめてしまう。
本当は、責めたくなんかない。
本当は、聞きたいけど、聞きたくなんかない。
柚木に叱られた、女学生かという言葉が頭の中に浮かぶ。
「……俺、……僕も」
「……え?」
「……僕だってリカ……さんがわからないよ」
急に変わった一人称と呼び方に、べそべそと泣き続けていたリカの腕が止まった。
今、このタイミングで、呼び方を変えるの、とか、わからないと言われたことが、自分が先にぶつけたくせに大きく跳ね返ってきて、ぐしゃぐしゃの顔のまま大祐の顔を見上げた。
由香も目を真っ赤にしていたから、泣いたんだろうなとしかあの時は思わなかったが、今、リカが泣いている姿は胸の中を無理矢理、裂かれているように苦しい。
苦しいのに、そんな顔も、やっぱりきれいだと、今思うことじゃないとわかっていても思う。
わからないと言い返したのは本心だが、リカの“わからない”と大祐の“わからない”は決定的に違った。
リカの“わからない”は、何をどう伝えて、どうしてなのかがわからない、だったが、大祐は違う。
リカが自分自身を子供の様だと思ったのと同じように、大祐も少年のように途方に暮れていたのだ。
「何回でも言うけど、僕が連絡しなかったのは自分でもどこかで連絡しようって毎日思って、それでできなかっただけで、リカさんを後回しにしたわけじゃないよ。どうでもいいと思ってたわけでもない。携帯だってさっさと買いに行けばよかったし、メールだって、見ようと思えば見られたんだからそれは僕が悪いと思う。でも、リカさんは、どうして言ってくれなかったの?松島に来たって。僕が言い出さなかったらリカさんはずっと黙ったままだったの?そのまま、僕は疑われたままでいたの?」
由香と部屋から出てきたところを見たと言っても、どんなふうに見たのかわからないし、話が聞こえていたのかもしれない。それにしても、大祐にとっては疾しいことなどこれっぽっちもなかったのだから、どこを見られたとしても、そこにリカが現れた方がいっそよかったかもしれないと思う。
堂々と出て来てくれればよかったのに。
驚いてそのまま帰って、それっきり電話した時も大祐の出方を見ていたのかと思うと、疑われるよりも、試されていたのかとさえ思えてしまう。
眉間に皺を刻んだ大祐に、リカは反射的に口を開いた。
「それはっ!だって、びっくりしたし、邪魔しちゃいけないと思って……」
「邪魔って何?!たまたま、玄関を開けて出てきた瞬間じゃないの。それ、大澤じゃなくても、集金にきた人だって、俺、寒かったら玄関先に入って待っててもらうよ?!それが駄目なの?たった一瞬の出来事で僕は判断されたの?」
「だからっ、それが駄目だなんて言ってない!ただ、……ただ、ちゃんと言ってくれたら、私だって……。私なら……」
どうしてもうまくいかない。
自分でも考えて、嫌で仕方がないと思いながら、できることをしたのに、こうしている時間が、堪らない。
徐々に尻すぼみになったリカをじっと見つめていた大祐は、唇を噛みしめた。