「……こんないい方したくないし、それがすべてだとも思ってないけど、僕もリカさんの立場だったら嫌な気分になったと思うよ。でも、男と女は違うでしょ?男が女の人に最低限、優しくしなかったら駄目じゃないの?」
「性別でなんか違わないでしょ?私だったら、そんな人、家に入れないもの!いくら玄関だって、入れるはずがない」
「あのさ、そこは根本的な話が違うよ、男と女じゃ。相手が女の人だったら、いざとなればいくらでも追い出すこともできるし、なんとでもなるけど、リカは違うでしょ?相手が男だったら簡単に追い出したりできないでしょ?襲われたらどうするの?」
話にならない、と首を振った大祐に、それでもリカは違う、と首を振った。泣きすぎて、どんどん顔色が白くなっていたが、同じくらい興奮していて、それさえも自覚がない。
「だからって男女の差で状況が変わるの?一言、私なら大祐さんに相談したもの!」
「したくなかったんだよ!俺は!!」
びくっ。
手を。
指先を繋いでいなかったら、リカは身構えてしまったかもしれない。
一番最初に出会った時以来、初めて、大祐が声を荒げた。どういえば伝わるのかわからなかったけど、とにかくやりきれなくて遮る様に怒鳴った後、絞り出すように呟く。
「……したくなかったんだ」
自分自身にますます腹が立って、苦々しさを堪える。目を丸くしたリカが驚いている目の前で、項垂れた大祐が何度か大きく息を吸い込んだ。
少しでも自分を落ち着かせるように、噛みしめた唇を舐めて、それでもついつい噛んでしまう。
「……連絡、できなかったのも、途中で一言も言わなかったのも。俺が」
きっと、こんな風に言ったら、またリカは誤解するに違いない。
私のことが信用できなかったの、とか、私には言いたくなかったの、とか思うだろうなと。
頭ではわかっていたが、大祐にも思うところはあったのだ。だから男はと言われるのかもしれないが、だからこそ。
もう一度息を吸い込んで、それから本心を白状する気合いを溜め込んで。
顔も上げられないままで胸の内を吐き出した。
「リカさんに……連絡してたらきっと、ちゃんと顔を見て話すなんて、かっこつけたこと言ってられなくて……。ぐだぐだになってる自分のまんまで……リカさんに甘えそうな自分が嫌だった。ずっと、情けないところばっかり見せてきて、結婚してからも、すごく好きすぎて、僕の方が散々甘えて、男の僕の方がこんな情けないくらい、みっともないことばっかりで。僕は僕なりに、精一杯、全力でリカさんのことを愛してるつもりだけど、それでもやっぱりみっともないところばっかりっていうのはさすがにないよなって、ずっと思ってた。絶対嫌な気分にさせるのがわかってたけど、それで僕が甘えたらリカさん、もっと嫌な気分になるだろうし、もちろん、怒るだろうし、ただでさえ、嫌な気分でいっぱいだったから怒られたくないなって……。そういう、くだらない、馬鹿みたいな男の見栄を責めるならいくらでも責められて仕方がないと思うよ」
「……」
呆気にとられたリカの目から、大量に溢れていた涙がさすがに止まる。
一息でとはいかなかったが、大祐の口からあふれ出した本音に、どう反応していいのかわからない。
―― ちょっと待って……?何だっけ?
散々泣いて、怒鳴っていたからすっかり思考能力が落ちていて、耳に引っかかるキーワードしか頭に残っていない。目の粗い雑なふるいにかけたように、ほかの言葉がどんどん零れ落ちていってしまう。
「……大祐さん」
口をへの字に歪めた大祐に、リカがもう一度呼びかける。
「大祐さん」
「……何」
「なんで急に、『僕』で、『リカさん』なの?」
―― え?今そこ?そこなのか?
精一杯の、無様な告白を完全にスルーされた格好で、今更のように一人称とリカの呼びかけについて問いかけられた大祐は、ダメージが大きいな、と思いながら、くしゃっと顔を歪めた。
「リカさんが、さん付けのままだし、謝ってるのは僕の方だから、きちんと話すならそうでしょ?」
「……えっ、きちんと話すなら私も空井さんって言わなきゃいけなかったの?」
「いや、そうじゃなくて。ねぇ、リカ。なんだか話がどんどんずれて行ってるんだけど?」
ああそうだ、と呟いてため息をついたリカを見て、離したくはなかったが、仕方がないと手を離してキッチンから水をとってくる。大祐はあまりこだわりがないが、リカはミネラルウォーターのペットボトルを愛用している。
ペットボトルを持ったついでにポケットのハンカチを取り出して、水に濡らした。
ぺたりと座り込んだリカの元に戻って、ペットボトルと濡らしたハンカチを差し出す。
「……ありがと」
「うん」
冷たいハンカチを握りしめて、ゆるめてあったペットボトルをあけた。くすっと、どうでもいいことが頭に思い浮かんでしまう。
リカが締めるときは、ペットボトルのキャップは、きちんとこぼれない様には締まっているが、大祐が締めると、リカにはどうしても開けられないくらい固い。初めの頃、四苦八苦しているリカをみて、その力の差に驚いていた大祐が、それから必ずリカに渡す時はゆるめてから渡すようになった。
―― あれはまだ、『空井さん』だった時からだったなぁ……
彼女でなくても、当たり前なことは当たり前だ。
妻として大祐を好きな女として、由香の登場もすることなすこと、すべてが嫌だと思った。
これが、片山だったら完全に無視しただろう。存在さえも平気で無視するだろうし、比嘉ならやんわりと拒否をしておいて裏で手を回すかもしれない。
槇だったら。
―― その前に、柚木さんが乗り出してきそう……
強張っていた顔が少しだけ緩んだリカを、本人が思うところの最大に情けない顔で大祐はじっと見ていた。
「大祐さんは、あり得ないって何度も断ったんだよね?」
少しだけ落ち着いたらしいリカに頷きながら、恐る恐る、濡れたハンカチを握りしめている手を取って、薬指と小指の先だけをそっと手の中に包み込む。その頼りなさが、落ち着かなかったのか、握っていたハンカチをもう片方の手に移して、リカが大祐の手を握り直す。
「断ったし、皆の前で誤解されるような行動をとられたことも嫌だった。嫌で仕方がなかったけど、なんで大澤が納得するために、僕が付き合わなきゃいけないんだろうって何度も思ったけど、そのままにしておいたら何するかわからないなと思った。少なくとも、いい仕事相手ではあったし」
付き合わずに話も聞かなければよかったと女性なら思うのかもしれない。
それを大祐も全く考えなかったわけではない。
でも。……でも。
どんな風に由香が自分自身の事を思っていて、それを偽りの姿だったと言ったとしても、大祐やほかの隊員から見れば、やはりそれも由香の顔の一つだ。どれほど、自分を卑下してびくびくしていたと由香が思っていても、100%別人を装える人などいないのだから。
だからこそこそ、彼女の無茶な行動がわからなかったし、少なくとも、由香の望む通りの事は出来なくても、止めてやりたかった。
―― 恋愛感情じゃなくて、助けてほしいのかなと思ったんだ……
彼らの組織は時に、一つの大きな家族のようになる時がある。いざという時に、どうなるのか、どういうことが起こるのか、常に頭にあるからこそ、それを支える人たちの大変さもわかる。何もない日常だからこそ、いつか、に備えることに疲れてしまう者もいれば、非現実に逃げそうになる者もいる。
誰にでもあり得ることだと思っているからこそ、違う何かがそこには確かにあった。