眠り姫の憂鬱 23

「日曜の電話の後、どうしてリカさんが怒ったのか、全然わからなくて……」
「ふふ……。私もどうしてだったかもうわかんなくなってきちゃった」
「いや……。そうじゃないんだ」

え?と不思議そうな顔をしたリカを見上げた大祐が、もう一度、リカを抱き寄せて、向かい合っていた時よりももう少しだけ近くなる。

「まだ、続きがあるんだ」

先がまだある、と言われて、動揺したリカを抱きしめた大祐は、長い一週間の間のことを話し始めた。

月曜日、いつもなら拘らないところに拘って、泣いたリカが、ろくに話も聞かずに電話を切るなど、初めてのことで、どうしていいのかわからなかった大祐は、ひどい寝不足のまま仕事に向かった。

ドミノ倒しのように、不機嫌さが寝不足になり、寝不足のせいで不機嫌になって、体調もすっきりせずに、不快感を全開にした大祐はもっと早く気づくべきのことに気づけずにいた。
遠巻きにして誰も話しかけてこないのは、てっきり自分が不機嫌そうにしているせいで、いっそ、静かでいいとさえ思っていた。

昼近くになって、それまで部屋にいなかった山本が姿を見せる。

「空井。ちょっといいか」
「はい」

何度も同じところを書き損じていた書類を諦めて、大祐は立ち上がった。特に何を言うわけでもなかったが、そのまま山本が部屋を出て行こうとするのをみて、渉外室では話せないことだと、遅れて気づく。

山本の後に続いて、廊下を歩いている間に、初めて大祐はその違和感を感じた。

「室長、どこに行かれるんですか?」

山本は振り返らずに、リカが取材に来た時にスライドを流した大会議室に入った。誰もいるはずのないそこで、まっすぐ部屋の真ん中まで歩いて行って、椅子に腰を下ろす。
大祐がその傍に立つと、静かに、そこに座れ、と言われた。

「あの……何か」
「空井。俺はお前が基地に来てからずっと見てきた。だから率直に言おう」
「はい」
「お前が、あの大澤と噂になっててな。急なことで俺も驚いたんだが……」

不機嫌さで気づかなかったとは言い切れない、よくない気配は大会議室に入った瞬間からしていた。考えられるとすればそれしかないとは思っていたが、山本に言われると、それは現実を伴って重く響く。

「お前は、稲葉さん一筋だと思っていたから、俺はそれはないだろうと思ったんだ。だけど、お前が大澤と食事をしていたところを見ていた者もいたし、何より、週末、お前の部屋の前で朝方からずっと大澤がいたと聞いてな。大澤が辞めることは聞いていたから、やけになってるんじゃないかと思った」
「自分は何も……っ!」

淡々と話す山本に、つい大きな声を上げかけた大祐を山本は手で制した。

「わかってる。仕事を辞めて地元に帰るっていう大澤がやけを起こしたんじゃないかと思った。ただな。お前も男だから、同情するってこともあるかもしれないし、ひとまず、双方に話を聞こうということになったんだ」

そんなことはないこともわかっているけどな。

笑みを浮かべて頷いた山本の顔をまともに見られずに大祐は頭を振った。

何を聞かれても疾しいことなど一つもない。
険しい顔のまま、大祐はその場で立ち上がった。

「自分は、大澤に相談を受けていただけです。何も疾しいことはありませんし、同情するような関係でもない。それは誰にどう聞かれても全く問題ありません」

膝の上に手を置いていた山本は、大祐の顔を見上げて、頷いた。

「まあ、そう怒るな。実はな。お前を呼ぶ前に、朝から大澤の方も話を聞いていてな。大澤の方は、辞めることもあって、ずっと憧れていたお前に付きまとったと、そう言っていた。すべて、自分が身勝手な行動をとっただけで、お前にはきっぱりと拒絶されたともな」

何に対しての怒りなのかはわからないまま、ぐっと拳を握りしめる。立ったまま、眉間に深い皺を刻んだ大祐にぎこちなく、山本が笑顔を作って見せる。

「そんな顔するな。意外と言えば意外だったが、相手がお前なら大澤が憧れたというのもわからなくもない。逆に俺はお前の方が心配だった」
「心配?心配ってなんですか」
「要するに、お前の方は一方的に付きまとわれた格好だろう?それでも噂をする奴はするからな。ましてや、官舎の部屋の前にずっといたなんて、ろくでもない噂のネタにしかならん」

それはそうだろう。
官舎に住んでいるのは、隊員だけではなく、隊員たちの家族もいるし、隊員本人もいる。当然、長くいれば、顔と名前も一致してくるし、しなかったとしても、どこあたりに住んでいるのかくらいは、お互いにわかってしまうような場所だ。

「大澤は今日から5日間の謹慎になった」
「!」

それが厳しい処分なのかどうかはわからないが、今まで由香が積み上げてきたものを、自分の腕で叩き壊してしまったような格好になった。それこそ、同情の余地はないが、処分については驚きと、苦さだけが残る。

「一応、これで、形だけはお前も注意をした、ってことで収めることにことになったから、あまり気にするな。しばらくの間は、憶測だけが飛び交って、うるさいかもしれないが、どういうことにせよ、大澤の方は女だからな。余計なことは言わず、何があったのかも口にしない方が賢明だな」
「何もなかったのに、何をどう話せっていうんですか」
「空井……。それは、大澤からも聞いているからわかってる。だが、なんにせよ、そういう憶測を呼びやすいことはわかるだろう?」

わかるもんか。

向けられた疑惑の目を理解した大祐は、荒んだ気分で握りしめていた拳から力を抜いた。
もういいと言われて、会議室を出た後も、行き場のない苛立ちが胸の内を暴れまわる。

片っ端から仕事を片付けていた大祐に、その日は誰も余計な話をする者はいなかった。

翌日は、もう少し様子が違っていて、由香の方を擁護するムードが揺れ動く。そのほとんどは、大祐に日頃からやっかみを感じていたり、由香の隠れた信奉者だったりして、そのほとんどは、周りに諌められて大人しくなったがそれでもまとわりつくような、不愉快さは残る。

デスクに座って仕事をしていても気が滅入るばかりだった大祐は、夕方、人気のない滑走路の近くに出た。

夕日がじわじわと空を染めて、沈んでいく姿を見ながら、電話に出てくれないリカのことを考える。

「腐ってるみたいだな」
「島崎三佐……」
「馬鹿だな。そんな顔すんな」

わかってるよ、と腰に手を当てて、大祐と同じように夕日を眺める。

「しばらくすれば静かになる」

静かに言われた言葉にしばらく黙った後、大祐は絞り出すように言った。

「……それまで俺が我慢しなきゃいけないのが納得いかなくて」
「ほんとに、大澤が、駄目だったらお前だってしかるべき手段をとっただろうよ。でも、そうじゃなかったんだろ?」

だからどうしようもなくて、こうなったのだろうと、あっさり言われるとすうっと、握りしめていた手から力が抜ける。
目に見えないボーダーをどういえばいいのだろう。危うさのボーダーは、正解があるわけではない。島崎が、にやりと笑って振り返った。

投稿者 kogetsu

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