少しでも箸が止まると、ちらっと視線が飛んできて、普段よりは時間がかかったものの、身についた習慣もあって、きちんと食べ終えることができた。目の前にあった食事が空になると、鷺坂がうまそうに茶を飲む。
「お茶、美味しいよ?食後はね、ほうじ茶いれてくれんの」
鷺坂につられて先ほどより、少し小さくて細長い湯飲みを手にしてふう、と熱い茶を飲む。
「空井。少し頭を冷やすといいよ。お前も、稲ぴょんも」
「冷静じゃ……ないのかもしれません。けど、なんでかわかりませんが、そんな誤解をされたままで冷静になんてなれません」
「困ったもんだね。お前も。稲ぴょんもだけど、今のお前は、稲ぴょんに悪いことしたなっていうことと、お前が苦労したなってことの二つしかないでしょ?そこまで考え込むことかねぇ。間違えたらごめんなさい、でいいんじゃないの。稲ぴょんも本気で疑ってるんじゃないだろうよ。お前、普段からマメだから。そんなお前が今回に限って連絡しないで終ってから話そうと思ったからそこが嫌だったんじゃないの」
傍からみればそんなに大騒ぎするような話じゃないよ、と突き放すように言われた大祐は、憮然としてしまう。大騒ぎも何も、大祐も訳が分からないまま渦の真ん中に流されていったに過ぎない。
ふて腐れたくもなる。
「ま、お前にしちゃ、自分から何かをしたわけじゃないからな。お前たちは、恵まれてると思うよ。苦労した分周りも温かい目で見てる。でもね。そろそろきちんと自分たちの足元を固めなさい。山本君には少しきつく言っておいた。これまでみたいに、出張と掛け合わせて出られるようなことはないと思いなさい」
「……それは……、はい」
確かにそれはそうだ。今まで、東京に向かう時、皆、何かと言えば協力してくれていた。随分、大目に見てもらってきたのは確かだ。
いい加減、それは卒業すべきだと大祐も思っていたから素直に頷く。
週末まで待てという言葉も、ようやく腹に落ちて、落ち着いた様子をみてとったのか、店の奥からおばちゃんが蜜柑を一抱えもってきた。
大振りで、少し無骨な蜜柑がゴロゴロとテーブルを転がる。
「はい!デザート!食べてってー」
本物のデザートではないのもわかるが、鷺坂と一緒に礼を言って、手を伸ばす。指を入れると、ふかっと頼りないくらい中身と皮の間に隙間があったようだが、甘そうな本体が顔を見せた。
「あの、リカが浮気だと思ったって、どうしてなんですか?ただ、連絡のことだけじゃそんな風に思いませんよね?」
二つに割った蜜柑の半分を口に入れていた鷺坂が、ああ、と頷いた。
「この件、あっちこっちで色々飛びかったんだよ。島ちゃんや山本君からも連絡はきたんだけどもさ。東京組は東京組で色々ね。そんなかの情報。稲ぴょんが何かをみたとか見ないとか、聞いたとか、聞かなかったとか。そんなの直接、本人に聞きなさいよ」
「……聞きたくても、予定を聞くこともできない状態で……」
「阿呆。お前、そんななのに、さっきは今から東京に行きます、みたいな顔してたの?情けないねぇ。週末なら稲ぴょんだって家にいるだろ。いなくても夜には家に帰るくらい当たり前なんだから、ちゃんと落ち着いて、週末になったら稲ぴょんのところに行ってきなさい」
阿呆、とまで言われて、しゅん、と項垂れた大祐を頼りない息子を見るように笑う。
いつまでも心配をかけて欲しいような、かけて欲しくないような。
―― お前たちは、俺の子供みたいなもんだからね
義理の息子、義理の娘が困っていれば、ついつい口も出したくなる。おせっかいな性分ではないが、そこは親バカということで許してもらおう、と思う。
互いに目の前に転がった蜜柑を二つずつ平らげて、その残りはもらって帰りなさい、と言われて大祐がありがたく引き受けることにした。
「おばちゃん、ごちそう様。今日もおいしかったよー」
「よかったわー。そっちのお兄さんも元気出た?」
照れくさそうに頷いた大祐を見て、エプロン姿のおばちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
ざっと割り勘にして会計を済ませると、店を後にする。隣の整地されたわけではない駐車スペースに向かうと、後部座席にもらった蜜柑を転がす。
「そうだ。空井」
「はい」
「ちょっと」
助手席に乗りかけた鷺坂においでおいで、と手招きされた大祐が何だろう、と鷺坂の正面に立った。
ちょいちょい、ともう少し手招きしたところで、不意に鷺坂が右足を引いた。
腰を落とし気味にして、軽く体重を乗せた右フックがきれいに入って、加減はしたものの、大祐は大きくふらついた。
「俺、言ったでしょ?今度稲ぴょんを泣かせたらって。稲ぴょんのお父さん代わりだからね。理由の如何に問わず、一発いただきました」
頭を振った大祐は、車に腕をついて顎が歪んだんじゃないかというくらいの衝撃だった頬に手をあてた。
「……いってぇ……」
「これでも加減したんだけどなぁ。俺も、まだ腕が落ちちゃいないってことかな?」
軽やかにシャドウボクシングの真似をした鷺坂に、何も言い返す気にもなれない。
実際には腫れあがってないのに腫れているような妙に鈍い感覚に何度も殴られた場所に手が行ってしまう。
「……それで、どこまでお送りすればいいんですか?」
「ん、今日は矢本駅でいいよ。島ちゃんと約束してるから」
何事もなかったように車に戻って、シートベルトを締めた鷺坂を矢本駅まで送る。
駅について、車から降りた鷺坂がじゃあ、またとあっさり去っていく。
官舎に戻った大祐は、今日も同じようにリカの携帯を鳴らした。留守電に切り替わった瞬間、今日だけは何かを残したくて、息を吸いこむ。
「……会いたいよ。会って……、たくさん話したい。だから、週末はそっちに行きます」
最後の数秒間、沈黙になってしまった後、ぴーっという機械音で通話が切れた。
「そのアザ、どうしたんだろうって思ってたけど、鷺坂さんだったんですか」
そっと、薄くなったのだろう、顔のアザに触れた。もう痛くないよ、と言われてもそもそも殴られたこともないリカには、その度合いさえわからない。
「大祐さんが知ってたなんて、全然知らなかった……。私達、また皆さんに心配かけちゃいましたね」
「うん。リカさん。……リカさん、……リカ」
今、どう思ってるの。
指輪を交わしても、たとえば一緒に住んでいたとしても、言葉にしなければ伝わらないこともあるし、わからないこともある。
誰よりも近くて、誰よりも遠い相手だから。
「僕……、俺は、リカしか大事じゃないし、今回の、も、俺はリカに恥じることは何一つしてない。でも、リカに嫌な思いをさせたこと、連絡しなかったことは俺が悪いから……。ごめん」
「私も……。私も、ちゃんと大祐さんのこと、信じきれなくてごめんなさい。本当に、疑ったわけじゃないのに、ひどい態度で……」
「……いや。それは、仕方ないと思う」
もっと責められてもおかしくはない。
そう思っていた大祐が申し訳なさでいっぱいの顔をしていると、リカがふにゃっと崩れた。
「私、……そんなに我儘言ってるかなぁ?」
「違う違う!逆だよ。いつもあんまり我儘言ってくれないから、いつも不安で……」
そうなの?と目を丸くしたリカと苦笑いで頷いた大祐は、どちらからともなくほうっとため息をついた。