目の前にあったお通しのナッツに初めて手が伸びる。ピスタチオの殻を憎しみを込めるようにぱきっと割って、珠輝は口に入れた。
「……稲葉さん、腹立たないんですか?」
「腹が立つっていうか、誤解した私も悪いし、誤解するようなことになってた大祐さんも悪いと思うけど、謝ってくれたし、それ以上どうしようもないよね」
ずっと、リカの中で疑問に思っていたことを口にする。リカ自身も口にしているが、正解などないことはわかっている。
だが、本当はどんな答えがほかにあったのだろう?
「どうしようもないで済ませていいんですか?私だったら絶対に許せません!」
「もし……、それが大津君だったら、ずっと許せないままなの?珠輝は別れちゃうの?」
そうじゃなくて、ともどかしい思いで珠輝はテーブルを叩く。リカのために怒っているのに、その本人から言い返されては理不尽だと思う。
「私、稲葉さんのために怒ってるんですけど!別れるとかそういうことじゃなくて、女として許せなくないんですか?」
珠輝にそう言われて、リカはずっと考えていたことをゆっくりと口にする。
「……それがね。ずっと考えていたんだけど、許せないんなら、じゃあどうしたいのかって思うと、何も出てこないの」
謝ることは謝ってもらって。
過ぎてしまったことは今更なかったことにはできない。
たくさん話していて、同じことを繰り返さないように、二人で話してるのにそれ以上何をしてほしいと言えばいいんだろう。
それに。
初めはひどい、悲しい、そんなことしか思い浮かばなかったが、今は少し違う。
許すとか、許さないとか。自分自身がそんなに偉そうなことをいえるのだろうか。
リカも間違えたし、大祐も間違えた。
「……よく、わかんないです。私、まだ結婚したことないし」
「だよね。私も結婚してるけどわかんない。それを見つけていくのか、作っていくのか、わかんないけど二人で考えなきゃいけないなとは思う」
「それにしたって……。稲葉さん、取材、どうするんですか?」
何も自分からそんな相手に会いに行くような真似をしなくてもと、珠輝は顔を曇らせている。今は空井の顔さえ見てしまえばひっぱたいてしまいそうな勢いだった。
「それなんだよね……」
リカはビールからジントニックに切り替えて、グラスのふちにくっついたミントの葉っぱを指で摘まんだ。ぺろっと舐めるとミントのフレーバーが口に広がる。
「いいじゃん。行っちゃえば?」
次の瞬間、唐突に降ってきた声にリカも珠輝も揃って振り返った。
二人の座るスツールの背もたれに手を置いた藤枝が手を伸ばしてチーズを口に放りこんだ。
「藤枝!あんたなんで……」
「珠輝ちゃんから話聞いて、お呼び出しいただいたわけ。大体、話は分かったけど、いいじゃん。行けば?取材」
リカの隣に腰を下ろした藤枝は、リカが飲んでいたジントニックを見て、俺も、とマスターにオーダーする。
何を唐突に現れて好き勝手を言い出すのかと思っていた二人に、藤枝は相変わらずのクールな顔でにっこりと笑った。
「今回の制服シリーズのテーマ考えたら、ちょうどいいじゃん。取材にいって、直接会ってみて、お前自身が何か感じて、伝えられりゃいんじゃねぇの?俺達の仕事ってさ、仕事だけどそこにある伝えたいことは、やっぱり、俺達も生きてて、感情があってそれで、だろ」
「藤枝さん、深い……」
「珠輝ちゃん。俺は元からこういう男だよー?大津君から乗り換えるならいつでも歓迎」
それとこれとは話が別です!と珠輝が叫んでいる隣りで、リカにはまだ躊躇いがあった。公私混同せずにきちんと取材できるだろうか。
「だから、深く考えんなって。お前が公私混同すんのが嫌で取材に行かなかったらいつまでも、変にいい子ぶったまま、もやもやしてんじゃねぇの?」
「いい子ぶってなんか!」
「ぶってんだろ?お前だってさ。空井君にひどい女だって思われたくないわ―とかさ。傍で見てるぶんには面白いで済むけど、いい加減周りにも迷惑だからきっちりして来いよ。それで、お前なりに決着つければ」
視界の隅で珠輝が、思い切り首を振っている。いい子ぶったつもりなどないが、どこかで大祐に嫌な女だと嫌われたくなくて、物わかりのいいふりをしただろうと言われれば、そうかもしれない。
リカの腕に手を置いた珠輝がその腕を揺さぶった。
「そうしましょう!稲葉さん」
「う……ん」
何かを伝える。そんな大層なことができるかどうかわからないけど、今回の制服シリーズを企画したのもリカだ。
―― 自分なりの決着、か……
「不安だったら珠輝ちゃんについてきてもらえば。そろそろ珠輝ちゃんも単独でインタビューやってんでしょ?」
「はい!私やります!やらせてください」
「いざとなれば、お前が割って入ればいいし。な」
両脇から固められた状態で、リカは押し切られるように頷いた。本当は会うのが怖いというのもあったが、藤枝の言うとおり、いつまでも心のどこかで引きずるよりはいいかもしれない。
翌日、リカは比嘉に対して、大澤の取材について候補日のメールを送った。有休の消化中とはいえ、まだ立場は変わらない。最終日が13日だというのを聞いて、3つほど候補を送った。
比嘉にメールを出した後、リカは携帯を取り出した。
『大祐さん。今日、帰ったら詳しく話しますが、比嘉さんを通して今やっている制服シリーズのコーナーの特集で、大澤由香さんに取材の申し込みをしました。』
他にも何か書きたかったが、今は事実だけを伝えて、お仕事お疲れ様、と送る。
しばらく返信が来るまで生きた心地がしなかったが、お昼を食べに出ようかと思ったところに返事が返ってくる。
『比嘉さんから連絡が来ました。俺もしばらく忙しくなりそうなので、とにかく夜にまたゆっくり話しましょう』
ほっとため息をついたリカは、今度こそ昼をとるために立ち上がった。