「空井」
渉外室を覗き込んだ前島はひらひらと手を振って空井を呼んだ。
顔を上げた空井が廊下に出ると、頭を掻いた前島が悪いな、と言った。
「大丈夫か?お前。昨日、途中で止めてやりゃよかったんだけどな。久々の飲み会で楽しそうに飲んでるなぁって思ってたから」
「いや、大丈夫。それより、俺、そんなに酔ってた?覚えてるつもりなんだけど」
「ああ?お前、それ覚えてないって言うんじゃねぇ?」
呆れた前島は両手を広げて昨夜の大祐の様子を少しオーバー気味に再現する。
「こんな感じで、まともに歩けねぇ感じだったのに、店出たとたんにいきなりすたすた歩きだしてさ。青山が車、エンジンかけてるのにまだ飲むつって暴れたじゃねえか」
「え。俺そんなこと言ったっけ」
「そうだよ。店出て次いくっていきなり歩き出しただろ」
店を出て、普通に歩いて車に乗ったと思っていた大祐は、額に手を当てて自分の記憶を思い出そうとする。だが、覚えていると思っていた記憶は半分、自分の思い込みだったようで、確かに記憶はあやふやだった。
「あっれ……。っかしいな。俺、そんなに飲んだっけ」
「飲んだだろー。お前、それさえ覚えてないの?ビールに日本酒、焼酎に最後はワインまで付き合って飲んでたらトブのも当たり前だろ」
「マジか……」
そんなめちゃくちゃな飲み方はここしばらくしていなかったから、我ながら情けない。
―― そりゃ、携帯も水没させるよな……
大祐の記憶の中では、リカに一生懸命電話をしようとしていたことだけは覚えている。そして、何度かけても繋がらなくて、コール音だけがひたすら聞こえることがひどくさびしかったことを思いだす。
「……あれ?俺、電話した?したのは夢か?」
「何言ってんの?リカぴょんには一生懸命話しかけてたぞ。なんかぶつぶつ言ってて、飲みに行くのがどうとか……。いや、そうじゃなくて。それよりお前にちょっと話があるんだよ」
そこから声を潜めた前島は、今晩時間がないかと言った。
「いや、俺、携帯を探しに行きたいんだけど、何?」
「携帯?そんなの後でいいだろ。それより、今夜!頼む。頼んだぞ」
「あ、おい!前島!」
頼んだからな、とだけ言って、前島は足早に戻っていった。
残された大祐は、困ったな、と呟く。
「携帯……。買いに行きたいんだけど、な」
しかし、正直なところ、携帯なんて5年近く変えていない。水没した携帯のメモリーはバックアップをとるようにしてあったし、電話帳もそうだ。新しい機種を買って移行すればいい。
それほど時間はかからないだろう。
そう思っていた。だが、その日、結局大祐は、リカに電話することもなく、携帯を変えることもできなかった。
夜には電話が来ると思っていたリカは、いつまでたってもならない電話に、どうしたんだろう、と思いながら何度か電話をかけてみた。
そして、何度も同じ、電波の届かない……というメッセージを聞くことになる。
0時を過ぎても繋がらないのは、駄目だということだろう。
―― きっと仕事が忙しくなって、今日は携帯買いに行けなかったのかな……
そう思ったリカは、メールを大祐の携帯宛に送った。
さすがに職場のメールに送っておくのは憚られたからだ。
『大祐さん。今日も電話がなかったけど、携帯、きっと変えられなかったのね。少しさびしいけど大人しく待ってます。携帯、繋がる様になったら連絡ください。おやすみなさい』
リカにしては、少しだけ可愛いメールを送ると、ベッドに入って抱き枕をぎゅっと抱きしめる。
抱き枕は大祐のTシャツを着ていて、大祐は知らないが、リカが一人の時に登場する大祐枕だ。
「……まあ、毎日話していないと不安っていうわけじゃないんだけど、ね」
―― ただ、話したいだけで……
手に触れて、その腕に抱きしめられて。
それができない分、電話やメールは繋がっていると感じる大事なツールだった。仕方ないなぁ、と思いながら大祐枕を抱えたまま目を閉じた。
金曜日になっても連絡が取れない大祐に、リカはどうしたものかと思っていた。
大祐の部屋には固定電話はなくて、それでもPCがあって、無料通話のできるアプリも入っている。なのに、連絡が取れないというのだからさすがに困ってしまう。
大祐が職場から取り急ぎのメールを寄越した後、リカは携帯に一度、それから家のメールにも送っていたのだ。
だが、少なくともリカが家に帰って念のために立ち上げていたアプリもオンラインになることはなかった。
そして、金曜日の夜になっても大祐からは何の連絡もなくてどうしたものかと思う。
忙しくて、携帯を買いに行けなかったとしても、家には帰るだろうし、家に帰ってくればメールくらいできないだろうか。
「ああ。ダメダメ!何暗くなってるの、私。これじゃ、重い女一直線じゃない。可愛げもないのにそれじゃ最悪……」
メールの返信が少しないくらいで騒いでいるような年齢でもないだろうと思うが、夫婦とはいえ、恋愛ごとには随分長いことご無沙汰してきた自信があるだけに、時々、とてつもなく不安になるのだ。
今も、PCの前に陣取っているがアプリはオフラインのままで、メールの返信もない。
幸いなことに、明日は土曜日で、土日で松島に行けないわけではない。今週の予定を立てる前に連絡が取れなくなってしまったのだ。
一応、先週はバレンタインもあったから大祐が東京に来ていたこともあって、今週リカが松島に行ったとしてもおかしくはない。
―― いきなり行ってまずくない……よね?
たとえば大祐が仕事だったとしても、それならそれで家で待っていればいいし、一人だからといって困ることもない。今までにもそんな日がなかったわけではないのだ。
「よし。決めた。朝一で行こう」
往復できないものでもなく、思い立てば行けばいいだけなのだ。
時計を見れば1時を回っていて、リカはPCを閉じて、手早くバックに1泊分の荷物を放り込んだ。松島にも化粧品などは少しだが置いてある。最小限の荷物を用意すると、携帯で時間を調べた。
「6時56分か……」
東京駅までタクシーで行くか、乗り換えて上野で同じ新幹線をつかまえるしかない。どうせなら東京駅から乗るのがいい。始発はとうに動いている時間だからタクシーを捕まえるのもそれほど大変ではないだろう。
そう思ったリカはひとまず朝一番に松島に向かうことにした。それでも新幹線の到着時間からすると、7時台の乗り換えができないから次の乗り換えになって、10時半頃にしか到着できない。
その時間なら大祐も起きているだろうし、もしかすると携帯を買うために外出している時間にぶつかるかもしれないが、それでも何とかなるだろう。
ざっとスケジュールを立て終わったリカは、大祐枕を抱きしめてさっさと寝てしまった。