「稲葉さん!」
仕事明けに夕食でもと誘われた大祐は二つ返事で承諾した。もちろん行きます!と答えておいて、はっと我に返る。
「あの、でも、もしかすると遅くなることも……」
「わかってます。お互い様です」
仕事が押してしまえば、終わるに終われなくなることはよくあることで、行きたい、と思っても身動きが取れないこともある。
念のための一言に、即答を返されて、大祐はほっと笑顔になった。
「じゃあ。あとで」
「あとで」
携帯越しにそんな会話をしてから、仕事に戻ったが、正直浮かれていてだいぶ雑だったことは否めない。
「空井二尉」
「はいっ!」
「返事は素敵ですが、これ、明日もう一度やり直して下さい。今日はやり直しといってもこれ以上よくはならないでしょうから」
にっこり笑って隣の比嘉から、企画書を差し戻されて、う、と言葉に詰まったが、それも確かなことなので素直に受け取った。
ダメ出しをされたことより、比嘉の笑顔の奥の目がものすごく気になったが、追及を避けるために全力で笑顔を作る。
「はい。頑張ります」
「そうですね。色々頑張ることがあると頑張れますね」
含み一杯の笑顔を何とか振り切って定時と同時に席を立った
誘っておいて申し訳ないが、と局まで迎えに来てほしいというリカの頼みも大祐には何ということもない。
上がり時間が大祐のほうが三十分ほど早い。
早く顔を合わせて、移動しやすいと思えばなんでもなかった。
いつものように、局の前のフラットなスペースで腰を下ろしてリカを待っていると、ガラス張りの建物からリカが走り出てくるのが見えた。
名前を呼んで大きく手を振ると、なぜかびくっとしたリカが、鞄を押さえて駆け寄ってくる。
「空井さん!もう、名前呼ばないでください!」
「えっ、どうしたんですか?いつもそうしてますよね」
「いいから!」
リカに会えた嬉しさで笑顔いっぱいの大祐の腕を掴む。周りを意識しているのか、きょろきょろとあたりに目を向けた後、リカは急ぎ足で歩き出した。
「待ってくださいよ。稲葉さん」
「あっ……。すいません」
「どうしたんですか?」
ん?とリカの顔を覗き込むと、一瞬何とも言えない顔を見せてからぱっと視線をそらした。
―― この人は……
無防備に胸の奥を掻き乱す顔に、大祐は内心では溜息を覚える。
「な、なんでもないです。あの、お、お腹空いちゃって」
「なーんだ。そうだったんですね。じゃあ、早く行きましょう。何食べたいですか?」
リカが掴んでいた腕からそっと手を離してから、改めて指を絡めて手を繋ぐ。その手を引き上げて、ね?と笑うと再び歩き出した。
年があけて一か月ではまだまだ寒い。
リカの手が冷たくならないようにしながら歩道に出たところで、リカが後ろを振り返る。
「どうしました?」
「……いえ、なんでも。空井さんが大きな声で呼ぶからですよ」
もう一度、軽く睨まれてしまい、すいません、と大祐は頭を下げる。
あの日の撮影のあと、リカは一人で戻ったが、途絶えていた交流は再び戻りはじめた。そしてそれは、仕事よりもこうして食事に行く回数のほうが増えた気がする。
あの夏の二秒のあともあやふやなまま、連絡も取れなくなり、正直、諦めかけていた。
でも、どうにかつながった。
だからこそ、大祐にとっては今が嬉しくて仕方がない。
薄々状況を察しているらしい、比嘉や鷺坂には付き合っちゃえよ!と発破をかけられているのもあって、もう少ししたら、と思っていた。
「そうだなー。あったかいものどうですか」
「あったかいもの。おでんとか、お鍋とか?あ、タジン鍋どうです?」
「あー、今なんか流行ってるやつ!変な形の」
そうそう、と相槌を打ちながら、なんとなく今日はリカとの距離が近い。
―― 今日の稲葉さん、どうしたんだろう?
大祐からすると嬉しい。嬉しいのだが、なんとなく落ち着きがないリカのことは気になった。
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結局、リカがここに、という店に腰を落ち着けて向かい合うと、リカの顔がほっと緩んだ。
「温かいですねぇ」
「そんなに寒かったですか?今日、確かに冷えるって言ってましたけど」
「寒いですよ。今日は最低気温二度ですよ?」
テーブルの上で両手をこすり合わせるリカに右手を乗せた。
「どうぞ。あったかいでしょう?」
ぴた、と動きを止めたリカが口を開きかけたところに店員がやってきた。
「いらっしゃいませー。おしぼりどうぞー」
リカのほうから熱々のおしぼりを広げて差し出されれば、自然と手は離れる。そして、大祐の手より、おしぼりのほうが格段に抵抗が少なかったのか。
両手を包み込むようにして何度もおしぼりを握りしめた。
「温か~い」
「ですね」
思わず苦笑いが出てしまったが、話始めると、連絡を取っていなかった間のことも含めて、そういえば、そういえば、と話は尽きることがない。
運ばれてきた料理を前に、気が付けば遅い時間まで話し込んでいた。
お腹がいっぱいになるまで食べて、それからまだ帰りたくなくて、飲んで。
それでも平日だからと、諦めをつけて店を出た。
「空井さん、どうぞ。駅まで送りますよ。私、タクシーで帰るので」
「え?まだ電車ありますよね?」
「ええまあ。たまには贅沢します」
てっきりリカも電車で帰るものだと思っていたが、店の場所からすると大祐とは路線が違う。先にリカを送ろうとしたところでリカに止められた。
「稲葉さん?」
「はい」
「何か、ありました?なんだかいつもと違うような……」
今度は手を繋ぐこともなく、並んで歩きながら、どうしても納得がいかずに何度目かの疑問を口にする。
だが、予想通り、リカからは同じ答えしか帰ってこなかった。
「なんでもないですよ。今日はありがとうございました」
急なわがままで、と詫びるリカにいいや、と首を振る。
―― 稲葉さんの誘いだったら、都合さえつけられればどこにだって行くのに……
素直にそういえばいいのだが、この曖昧な関係ではどこまで言っていいのか、まだまだ分からなくて迷うことばかりだ。
「いつでも……誘ってください。僕も誘いますから」
せめてぎりぎり許されるだろうと、そこまで言って駅の傍からタクシーを捕まえた。
「空井さんも気を付けて」
「稲葉さんも。じゃあ、お疲れ様でした」
曖昧な関係というには生真面目な挨拶を交わして、リカが乗り込むのを見送ってから駅の階段を上がる。
首をひねったが、別れ際のリカの笑顔を思い出すとついつい顔が緩んでしまう。
ヒマワリが咲いたような。
あの笑顔を見られただけで心の中があったかい気持ちになる。
帰り道の駅に貼られたポスターをちらりと見た大祐は、季節柄のかわいらしいイメージに口元が緩む。
―― そういえば、もうすぐ二月だから……。チョコとか……。いや、義理じゃなくてもさすがにこのくらい親しくなってたら……
にやにやと妄想が始まると止まらなくなってしまう。電車の中で我知らず百面相してしまった。
この出来上がった、というべきなのか、まだそこまではいかないというべきか。
むずむず、じれじれするような感覚が愛おしくてたまらない。
明日も手が空いた時にはちょっとしたやり取りがあって、時には仕事で、時にはプライベートで顔を合わせて。
充実している。仕事もうまくいっているし、それであんな美人の彼女ができそうだなんて思ったら多少、調子に乗っても許されるだろう。
明日、鼻歌交じりに職場に行ったら、きっと片山あたりには首を絞められるだろうが、構わないくらい大祐は気分がよかった。
大祐が上機嫌で電車に揺られている頃、タクシーに乗り込んだリカは、窓の外を眺めていた。
正直、電車があるわけだし定期を使わなかったとしても三倍もお金を払ってタクシーに乗るにはわけがある。
―― 今日、空井さんに会えてよかった……
このところ、駅から家に帰るまでの間に誰かに見られているような気配が何度かして、気にはなっていたのだ。
いくら人通りもある、都内だといっても、女性の一人帰りに何があってもおかしくはない。気をつけよう、と思って、防犯グッズをバッグに入れてみたりしてはいるが、リカのまちまちな仕事時間もあるのか、なんなのか、家の周りだったり、時には取材先で誰かに見られているような気がして、はっと振り返ることがある。
なんとなく、今日は早く仕事が終わりそうだったが、その分早く家に帰るのがなんとなく気になって、大祐に連絡してしまった。
付き合っていますか。
学生でもあるまいし、いちいちそんなことを口に出すなんて恥ずかしいとおもうが、つかず離れず。再び、話ができるようになって、それから何度かこうしてプライベートで二人きりで飲みに行ったりするようになったのに、一向に大祐との距離が変わらない。
仕事相手だからと生真面目な大祐のことだから、自分を戒めているのか。
―― でも、だったら制服着たままキスしてきたりしないわよねぇ……?
いつかの夏を思い出すと、今でも顔が赤くなる。
でも、あれからあれ以上のこともなく、こうして飲みに出歩くようになってもその親しさはどうにも仕事仲間の域を出ていないような気がした。
会いたさ半分。
不安半分。
窓の下のほうが少しだけ結露で濡れていたところを指先ですくって円を描く。
「……マーブル模様」
まるで今の私みたい。
家のすぐそばで止めてもらい、タクシー代を払って車から降りる。周りを見回して、おかしな人がいないことを確かめてからマンションに入った。
エレベータを待っていると、ポケットの中で震えた携帯にドキッとする。
ぱっと手を伸ばして画面を見ると、大祐からのメッセージだ。
『稲葉さん。もうお家に着きましたか?僕ももうすぐ家です。今日はおいしかったですね。あの鍋』
「……空井さんたら」
ついつい笑ってしまう。
いっそ、はっきりしてくれと言いたくなるのに、どこか憎めなくてこんな風に一緒にいなくても心が温かくなる。
自分の部屋の階につくまでの間に返信を打つ。
『あと少しです。誘ったのは私なので、満足してもらえてよかったです。次、またおいしいお店探しておきますね』
『楽しみにしてます。僕もどこか探してみますね。じゃあまた。おやすみなさい』
送ってすぐメッセージを開いたと出て、ふ、と笑いながら鍵を取り出す。玄関を開けて部屋に入るまでの間に、おやすみなさいが届いて、なんだかあと少しだけ甘えてみたくなった。
『空井さん、おうちに着いたらすぐ寝てしまうほうですか?』
ちょっとずるいかなと思いながらそんな風に送ると、メッセージを開いた様子はあるのに一向に返信が返ってこない。
―― 失敗しちゃったかな……
バッグをおいて、コートも脱いで。
家に帰ったら自然に動く流れで、手を洗って戻った時。
携帯が鳴った。
「はい、稲葉です」
『稲葉さん、駄目ですよ。こんな時間にすぐ出たら。誰だかわからないじゃないですか』
「空井さん……。何言ってるんですか。着信出てますから」
『あ……。ごほっ、あの、おかえりなさい』
なんなんだ。
電話に出た瞬間、名乗りもせずに叱りつけておいて、その中身は誰何もしないうちに電話に出るなという。
だいぶ慣れたとはいえ、とっさに言い返しはしたものの、このノリについていけない。
『あ、あれ?稲葉さーん。稲葉さん?』
「……はい。こちら稲葉です。います。起きてます」
『よかった。切れちゃったかと思いました』
切れるのは別な何かだと声に出さずに口だけを動かしたものの、電話の向こうの声は相変わらずで。
『僕、ちょっと心配だったんです。稲葉さんの家、駅から近いけど、家の近くは結構暗いでしょう?』
「もう何年も住んでますし、子供じゃありませんよ?」
『子供じゃないから心配なんです!……いや、あの……、別に変な意味はないですけど……』
急にしどろもどろになった空井に、リカは目を閉じてその声だけに耳を傾けた。
たくさん、心配をかけたのに。
今は、なんだか違うニュアンスで心配されたい。
「……空井さんも気をつけてくださいね。空井さん誰にでも優しいから」
『僕は大丈夫です!』
―― そんな空井さんだから心配なんです……
たわいもないそんなやり取りをバッテリーが危うくなるまで、二人は話し続けた。