「藤枝。今日飲みいかない?」
通りすがりにリカのその一言で足を止めた男は、くい、と顎を引いて、少し意地の悪そうな顔で笑う。
「いいけど?」
それが一番、得意な角度なのかわからないが、一番見慣れている顔でもある。
藤枝のスタンスは飲みの誘いならいつでもオッケーということで、二つ返事で予定を取り付けたリカに、胸に刺さる一言が飛んだ。
「俺で、いいわけ?」
「どういう、意味よ」
意味ありげな区切りをわざと真似して言い返す。
いちいち報告するわけではないが、大祐と時々食事に行っていることは話している。いい加減くっついちゃえよ、と何度言われたことだろう。
「言葉通りの意味だけど?」
「言葉通り、私が誘ったのはあんただけど?藤枝」
「それはそれは。光栄デス」
―― この男は……っ
こぶしを握りそうになったが、今はうっかりへそを曲げられては困る。
「んじゃ、終わったら連絡して」
「おう」
お互いに携帯を見せ合って、片手を上げた藤枝を追い払うようにひらひらと手を動かした。
こういう時に、女友達の都合はなかなか合わないものだ。早い時間、家に帰らなければあまり気にしなくてもよさそうだと思って以来、外で誰かと飲む回数が少し増えただけで。
今だけの事だとしても、外で一人で食事をして帰るのも味気ないので、必然的に誰かを誘ってしまう。
女友達ならあれこれと勘繰ったり、彼氏とデートなどで予定が合わないことも多いが、そんな時に助けてくれるのだ。
「稲葉さん。またデートですかぁ?」
珠輝がいない時を狙ったのに、他のアシスタントにからかわれてしまう。違うわよ、と言いながら噂話から逃げるために空いていた会議室に避難する。
ノートパソコンで企画書を作っていると、ノックの音がして阿久津が姿を見せた。
「稲葉。ちょっといいか」
「はい」
「お前、この前あれ、言ってただろ。家の近くでなんか後をつけられたとかなんとか」
話のついでに阿久津には一応、話をしていたのだが、身の回りに気を付けろ、で話は済んだはずだ。
それが急に何事かと立ち上がると、片手をテーブルについて眼鏡の奥からじろりと覗き込まれた。
「お前、一応聞くけど。まさか、三角関係とか恋愛問題がこじれた、とかないだろうな?」
「……はぁ?!何をいってるんですか。な、なに、どこの誰が一体そんな」
「いやいい!スマン!!あれか、セクハラとかパワハラじゃないからな?心配をしてだな、念のための確認だ!確認」
普段、冷静な阿久津に似合わず、顔をそらして手のひらを拒否するように向けてくる。リカにしてみれば聞いたのはそちらでしょうが!と言いそうになる。
それをぐっと堪えても、あまりのいい様にリカもついつい目がつり上がってしまう。
「もし!そんなに私が男性にもてるんだったら!とっくに結婚してると思いますし!仕事が恋人です、なんて言ってませんから!」
「そうだな。そうだ。うん、お前が仕事以外に興味を持つようになったのも最近だもんな!」
「ちょ、何気にひどくないですか?」
「うん。そうだ。そうだな、俺が悪かった。何もないならいいんだ、なにも、な!」
妙な念押しが加わって、ぐぐぐ、と唇を噛みしめて阿久津を睨んだリカは勢いよく頭を振った。
その勢いが強かったからか、聞きづらいプライベートに踏み込んだからなのか、阿久津ももろ手を挙げて何度も頷く。
「わかった、わかった。何もないならいい。いいんだが!……どうなんだ、その後」
今度こそ、真面目な心配だとわかったところで、トーンが下がる。
正直、人影を見かけたわけでもはっきり何かあったわけでもない。ただ、なんとなく気配がする、という程度なのだ。
「一応、帰りは気を付けてますし、あまり早い時間はやめて、ちょっと遅めの時間に帰ってます」
「何だ。遅い方がいいのか?」
「たぶん……。遅い時間の時はそんな気配を感じることもなかったので大丈夫かなと……」
ふむ、と腕を組んで顎のあたりを撫でた阿久津がしばし考え込む。普通なら早く家に帰ったほうが安全だろうが、早い時間のほうが不安というのもなんだかおかしい。
何かを言いかけてはやめ、言いかけてはやめ、というのを繰り返した挙句、とにかく気を付けろ、と言い置いて、会議室を出て行った。
「んで?」
「んでってなによ」
「だから、その後どうなのかってこと」
からん、と細長いストレートグラスの中で氷が鳴る。
こく、とライムの入ったグラスを傾けた。
「どうもなにも、なってません」
「はぁ~?お前、何やってるの?てゆーか、俺が心配したのは不審者のほうだけど。空井君のほうじゃねぇよ」
しまった、と思ったのもほんの少しの間で、はっと隣を向くとしてやったりという顔で微笑む顔にやられた、と肘打ちする。
「あっ、ぶな……。まあ、聞いた順でいくと、不審者のほう。気配だけっつーのがなんか気になるよな。ストーカー?そういうのでもなさそうだし」
「そうなのよね。なんかこう……様子を見られてる?みたいな……」
さすがの藤枝も、渋い顔をしてしばらく黙り込んだ。
「……大丈夫なのか」
「大丈夫、よ」
リカと同じストレートのグラスに入ったビールをひょいと傾けた藤枝に、ちん、と軽い音をさせてグラスをあてる。
そこは本当に、心配をしてくれているのだとわかるから、リカも素直に頷いた。
「大丈夫。私も、色々考えて、一人でもやっていけるようにって決めてるから」
もう、会えないと思っていた時間に、申し訳なさと後悔で、たくさん泣いた。
その分、ひとりでもやっていけるようになろうと決めた。
だから、大丈夫。
「しょーがないな、お前は」
「わっ」
後頭部から頭を掴むように抑え込まれて、くしゃっと頭を撫でられる。
その手は、男性にしては少しだけ華奢で、つらい時にリカを支えてきた手だ。
「あのなぁ。お前は女なんだから、危ない時はちゃんと頼れ。それで、ちゃんと空井君にもその話、相談しろ」
「駄目!空井さんにはこんな話……、あんたも余計なこと言わないでよ?やっと、普通に話せるようになったんだから……」
「馬鹿。普通に話せるだけで満足なのかよ。違うだろ?だから、何度も言ってるだろ?さっさとくっついちまえって」
「だ……ってそんなの、別に……、なんか……」
ガツガツどころか、恋愛には柚木以上に奥手かもしれない。
柚木の場合は、槙が押していったからうまくいったもので、相手が空井となるとどちらも奥手同士のようなもので。
その話を知っているだけに藤枝は空井を思い浮かべてますます上を仰ぐ。
「だめだこりゃ……。お前は中学生か!」
「だって!……」
「まあ、俺はいいけど?」
「いいなら放っておいて!」
じりじりと追い詰められて、やけくそ気味になったリカに、藤枝はふっと笑った。
今更、余計な横やりをしようとは思わないが、空井がどう思っているのか、が問題だ。
ただの親しい友人相手に、あの空井が何度も迎えに来たり、無理を押してでも会いに来たりするだろうか。
―― ……しそうだからこえぇんだよな。あの人は……
その天然具合には心当たりがあるだけに、同じ男としても確信がなかなか取れずにいる。今は女性のほうが強いと言われて久しい。
女性から告白することも多いし、いちいち告白などなくても、一晩の恋なんて藤枝からしてみればよくあることだ。
周りが発破をかけていかないと、少しも先に進みそうにないわけで。
「でもな、稲葉。これ、お前が逆の立場だったらどう思う?」
「え?」
「例えば、空井君が、なんだか最近、周りに追いかけられてる気配がするって困ってたらどうする?」
「それは!空井さんが大変な目に合わないように、私にできることだったら……」
やるわよ。
最後まで言い終わる前に藤枝の顔を見たリカがぴたりと止まった。
ん?と首を傾げて促してやると、小さく首をふって話を変えてしまった。