毎日飲み歩いたり、残業したり、食事に出たりしていると、はっきりと顔に出るらしい。コートが少し薄手になって、中に着る服も少し軽くなって、でもまだまだ寒い。
残業が続いて、しばらく飲みにも食事にも出なかったのは逆によかった。家に帰る時間は変わらなくても、明日がある、仕事をしていた、という気持ちから手早くメイクを落としてベッドに入る日々は思う以上に気持ちを切り替えたらしい。
さすがにそろそろ大丈夫だろう。
そう思い始めていたある日、帰ろうとバッグを手にして席を立ったところにタイムリーなメールが入る。
『空井です。今日、迎えに行きます』
迎えに行きます?
食事に行きませんか、でもなければ飲みに行きませんか、でもなく?
わかりました、と返信してからすぐ思い直す。
『でも、もう帰りますよ?』
『大丈夫です。もう外で待ってますから』
この流れはよくない。
リカは勘というものには鈍いほうだが、なんとなく回れ右して逃げたくなるような、何かを感じる。
とはいえ、大祐を待たせたまま逃げるわけにもいかず、そもそももう帰る、と送ってしまっていたので、のろのろと局を出る。
局の出入り口がみえる場所に大祐は立って待っていた。
「空井さん」
いつもなら遠くから手をふったり、大きな声で稲ぴょん呼びしたりするくせに、今日はそれもない。
う。
まるで叱られにでも行くような気分でリカは大祐の傍に近づいた。
「空井さん。今日はどう」
「……行きましょう。家まで送ります」
「あの食事とか飲みに行くんじゃ?」
「稲葉さんがお腹空いたなら、稲葉さんちの近くで」
硬い顔の空井に促されて戸惑いながらもリカは一緒に駅に向かった。
その間にも重たい沈黙の隙間に、リカはぽつぽつと話しかけたが、なかなか会話が続かない。
「今日は早く終わって……」
「……」
「今度、新しい企画の……その……」
「……」
「そういえば柚木さんから最近メールが来ないんですが元気……」
じっ。
電車はそれほど長くはない。局に近いということもあって、今のマンションからなかなか引っ越しする機会もなかったのだ。その電車の中で隣り合って、ぽつぽつと口を開いたリカを最後にはじいっと見つめている大祐に黙ってしまう。
「……おりましょう」
リカの最寄り駅について、電車を降りてから、大祐は改札を迷うことなくでてしまう。
「空井さん!」
後ろから急いで追いついたリカは大祐の袖のあたりを掴んだ。
足を止めた大祐は深くため息をついてからリカを振り返る。
「歩きながら話しましょうか」
そういわれて、こくこくと頷いたリカと一緒に、ゆっくりと歩き出した。
「室長……、鷺坂室長から連絡があったんです。稲葉さんが大変だって」
「え……なんで?鷺坂さん?」
いまさら何を、という視線を大祐からもろに浴びて、少しだけ大祐から距離をとったリカに大祐のほうが近づく。
「あの人のこと、知らないわけじゃないでしょう?阿久津さんから話を聞いたみたいです。それで、稲葉さんの身の回りに不安があるって聞いて、広報室の中が大騒ぎになって……」
「ああ、それは……」
想像しなくてもその様子が見えるような気がして、足取りが重くなる。そしてその気持ちはよくわかる、とばかりに大祐が頷く。
「まあ、そこは想像どおりということで。片山さんとか意外と、石橋二曹あたりもやる気になっちゃって」
「え?なんで?」
広報室の中でも話をしたことは限られるくらいに少ないはずだが、驚くリカに大祐が足を止めた。
「稲葉さん。僕らは、あの時稲葉さんを守れなかったこと、まだ忘れてません」
「あ……」
「稲葉さんが気にすることじゃないんです。ただ、僕らが稲葉さんを今度こそ守りたい。そう思ったんです」
そういうことか、とも思えたし、だからか、とも思えた。
「空井さん、それはちょっと」
「いえ、違うんです。柚木さんが護身術教えるって意気込んでたり、片山一尉が稲葉さんの護衛を日替わりで、とか言い出したんですけど」
想像するだけで、若干青ざめてしまうリカに、大祐は首を振った。
「僕がお家までお送りするということで一応、みんなわかってくれまして」
「それで今日来てくださったんですね」
はい。しばらく僕、迎えに行きます。
リカの脳内では大祐がそう答えるはずで、ありがとう、とまさに言おうとしていたリカは、実際に聞こえてきた大祐の声にぴたりと足が止まる。
「稲葉さんは、大体無防備すぎるっていうか。もうちょっと警戒心を持ってもいいと思うんですよ。ガツガツだったかもしれませんけど、それは仕事の上だけでしょう?プライベートはもうちょっと女性なんだから警戒して、自分を守ってくれないと」
「……空井さん。それ説教してます?」
「そうですよ!だって、ここだって駅から近いって言いますけど、十分くらいはありますよね?しかも途中までは大通りで途中から人気のない通りじゃないですか。車で乗り付けられたら、こんな大通りじゃ危ないし、人通りが少ない道にそのまま入られたら」
「ストーーップ!」
このまま放っておいたらどこまで言われるのかわからなくなって、大通りから角を曲がったところで立ち止まって進むに進めなくなる。
「それ、ひどくないですか?ここだって別にそんな悪い場所じゃありませんし、確かに駅からは十分前後ですけど、職場まで近いですし。それに警戒心がないなんて失礼じゃないですか」
「ひどくないですよ!わかってます?女性なんですよ?稲葉さんは」
一、二歩、進んではこんな言い合いをしてまたどちらかが我慢をするか、言っても仕方ないと進んでは止まる。
少し離れたところを歩いていく人たちは、何事かと思いながら、ちらりとみては痴話喧嘩と思ってか通り過ぎていく。
「だからってそこまで空井さんに言われたくないです!」
「何かあってからじゃダメなんですよ!」
「そんなこと心配されなくったって大丈夫です!」
「大体、知り合いだって少しは警戒しなくちゃいけないんですよ?!」
なんでこんなことに。
だんだん言い合ううちに冷静な頭はどこかに行ってしまい、自分でもどういう反論をしているのかもよくわからなくなりつつあった。
感情的になっては駄目だと思うのに。
いくら感情的になっても、こんな風に支離滅裂になることもないはずで。目の前の大祐はせっかく会えたのに、不機嫌なうえにこうしてリカに説教をしてくるし。
薄っすらと目尻に涙が滲んできてしまう。
遠くから女子高生らしい二人組が歩いてくることに気づきはしたが、みっともないと思ってもどうにも止まらない。
「稲葉さん。お願いだから少しはわかってください。僕も、鷺坂さんも皆も、稲葉さんを心配してるんです」
「大きなお世話です。もう放っておいてください」
「放っておけるわけないじゃないですか」
「知り合いだって警戒しなくちゃいけないんですよね?!だったら空井さんだって同じじゃないですか!もう放っておいて!」
さすがに言いすぎだと思ったのか、なだめようとした大祐の手を振り払ってリカは大祐に背を向けて歩き出した。ヒールの音に慌てた足音が重なる。
「稲葉さん!……それ本気で言ってます?」
リカの手首を掴んで、大祐が一段低い声を出した。振り返ったリカの腕を引いて、バランスを崩しかけたリカの目を見つめたまま、近づいた。
「空井さ……」
あと、三秒あったら。
いつかのようにリカとの距離がゼロになる三秒手前。
「あの!すみません!」
目を見開いたリカと、完全にロックオンの態勢に入っていた大祐が動きを止めた。