「あの、すみません。お姉さんのほう……」
その場で凍り付いてしまった二人は、もう一度続いた声にじわじわと動いて、先にリカのほうが声のほうへと視線を向けた。
ついさっき、視界の隅で、こちらに向かって歩いているのが見えた女子高生が二人。そしてその片方の長い髪を胸のあたりで綺麗に巻いている彼女が、ありありと笑いをこらえていた。
「これ、お返ししたくて」
「……あ、あ!!」
彼女が差し出した可愛らしい袋から取り出してくれた折りたたみ傘とハンカチに、リカは見覚えがあった。
それを指さして、彼女の顔と見比べて叫んだリカに、頷く。
「あの時の!?」
「そうですー!よかった。会えて!」
ぎこちなく向きを変えながら、リカの手首をつかんだままの大祐は、全く話が見えなくて二人を見比べる。状況を察したのか、彼女のほうが傘とハンカチを見せながらわけを話してくれた。
「この前、朝からすごい天気悪くて。駅に着くまでに折りたたみ壊れちゃって、制服も濡れてたし、受験の日だったんですけど、どうしようって思ってたらこのお姉さんが傘とハンカチを貸してくれたんです」
「……思い出した。前の日番組でやってたの。明日、受験の学校が多いのに天気が悪くなるって聞いて、大変だなって思ってて。そしたら朝、彼女が駅のところで壊れた傘を直そうとしてすごく、困ってそうだったから”大丈夫?”って聞いたら、これから試験なのにって泣きそうになってて、なんか放っておけなくなっちゃって。でも、よくわかったね」
駅といってもどれだけの人が行き来するかわからない。朝晩であれば通勤通学に使っている可能性は高いが、それにしてもである。
同じ時間帯といってもほんの少し違っただけで、出会う確率は下がっていくし、ましてや天気の悪い日のことだ。少し早めに家を出ようと思う者もいるだろう。
「私、予備校の帰りに何度かたぶん、お姉さんのこと見かけてて。朝会うのはたまにだったけど、電車の同じあたりに乗るからなんとなく見覚えあったし。だから、あれから朝とか予備校の帰りに、お姉さんに会わないかと思ってしばらく様子見てて。二回くらい、かな?たぶんそうだって思ったんだけど、追いかけてるうちにこの辺曲がっちゃって、わかんなくって。でも、会えてよかったです!あの日はありがとうございました!」
差し出された傘とハンカチを受け取ったリカのほうが、驚きすぎて、気の抜けた返事をしてしまう。その隣にいた大祐のほうが、ふと口を開いた。
「もしかして、もしかして、遠くからこのお姉さん見かけてじっと見てたり、追いかけたり、した?」
「あー……」
一緒にいたもう一人の女の子と顔を見合わせる。二人はあれかな、と囁いた。
「この子、すごく目が悪いんですよ。私もこのあたりに住んでるので、時々一緒に学校行ったり一緒に帰ってきたりするんです」
「一緒にいなかったから自信ないって言われたんだけど、よく見えないから、お姉さんに似てる人がいたら一緒に確かめてもらってたんです」
二人とも、とてもかわいくて、今時の女の子らしいがとても礼儀正しい子たちだった。
二人並んでもう一度、ぺこりと頭を下げる。きっと普段からとても仲がいいのだろう。それが伝わってきて、ようやく、そういうことか、と大祐とリカの二人の腹に落ちた。
「そーいう……」
「……ことですか」
どこか呆然としている二人に、二人はひそひそと二人だけで会話した後、自分たちの家はもう少し先だから、といってきた道を引き返していった。
「わざわざありがとう。気をつけて帰ってね」
離れて行く二人にリカがそう声をかけると少し先から笑い声が聞こえてきた。振り返った二人が大きく手を振ると再び大祐を凍り付かせる言葉が飛んでくる。
「彼氏さーん!邪魔してごめんなさーい!」
「頑張ってねー」
ふふふ。
あはは。
女の子たちが笑いながら歩いていく。テンションが高いからか話す声が聞こえてきて、それがまた二の矢、三の矢になって大祐に突き刺さった。
「だって、あれはないよねぇ?」
「女子的にないよねぇ。でも目いっぱい頑張ってたんじゃない?」
「えー、でもお姉さん的にはちょっとさぁ」
穴があったら入りたい。
無かったら、いっそ地球の裏側まで穴を掘りたいくらい。
たった今。
大祐の心境を口にするとしたらそんなところだろうか。
二人を見送るために、揃って同じ方向を向いていたから、隣に立つリカの手首を掴んでいるのに動けない。
「……確かに、あんな大きな声で言い合ってましたもんね。そりゃあ、聞こえてましたよね」
隣から聞こえてくるその声は冷ややかで、地の底から響くかと思うくらい低い。
「……あ……の」
「そういえば、私は、私の知り合いにも警戒しなくちゃいけなかったんですよね?」
大祐が掴んだままの手首にぐっと力が入った気がした。大祐の手を掴んでリカが振りほどく。細い手に掴まれた時にその爪に引っかかれた気がした。
手の甲が少し痛かったが、それよりも血の気が引きそうな気がして。
自分で自分を凍り付かせていた何かを振り払って、冷ややかな目を向けるリカに何とか謝ろうと思いつくまま口を開く。
「稲葉さん、すみません。あの、自分、つい心配だったのと、広報室でも好き放題みんなが言ってて、その」
「送っていただいてありがとうございました。さっきの話、きいてましたよね?もう大丈夫ですからご心配なく。どうもお疲れ様でした!」
ぷい、と顔を背けて自宅のほうへと歩き出したリカを、追いかけていいものか、このまま見送るべきか。
―― やばい。俺、頭真っ白だ……
聞こえてくる足音が、コツコツ、ではなくカツカツ、と音さえもとがっている気がした。
「……っ!」
リカがマンションの階段に足をかけようとしたその時、大股で走ってきた大祐がリカに追いついた。
「あの!ちゃんと、部屋まで送ります!送らせてください!」
「……空井さん」
さすがにマンションの入り口では人目が気になって、そのままロビーに入る。エレベータを待っている間に、隣から息を吸う音がした。
「さっき……。知り合いでも気をつけろって言いましたけど、どういう意味ですか」
「それは、その、男は特別好きじゃない女性でもその場の勢いというか、衝動というか、そういう」
そういう時があるから気をつけて。
大祐がそう言いかけた時だった。
ぱあん!!
「い……っ!!」
火が付いたような衝撃が先に来て、反射的に頬を押さえた大祐は、一瞬何が起きたのかわからなかった。
「え。稲葉さ……」
ぽーんとエレベータが開いた瞬間は隣にいたはずのリカがぱっと乗り込んで背中を向けたまま叫んだ。
「空井さん、大っ嫌い!」
「え、ちょ、稲葉さ」
手を伸ばしたリカが閉じるボタンを押していたから、容赦なく大祐の目の前でエレベータは閉まってしまい、小さな窓からは背を向けたリカの背中が震えているのがみえた。
上に上るボタンを反射的に押したが、押してどうなるものでもない。
手を離してしまった頬は今頃になってじんじん痛んだ。
リカを送っていったエレベータが下りてきて、大祐の目の前で開いたが、そこに人影はなくて、正面にある鏡にひどく情けない顔をした大祐が写っていた。
―― 稲葉さん……
追いかけて、部屋の前までいく気にはなれなかった。
大祐の頬を、思い切り殴ったリカの顔は、今にも泣きそうな顔をしていて、一杯に見開いた目には涙が溜まっていた、……ようにみえた。
何がいけなかったのだろう。
それさえわからない。
ただ、自分がリカをひどく傷つけたんだということだけはわかった。
女子高生たちが、せっかく『彼氏さん』といってくれたのに、頑張れなかった。
しょんぼりと肩を落とした大祐が、一人家に帰った翌日。
「おはよ、……う、ございます」
「……おはようございます」
広報室の一番乗りは、たいてい、比嘉か柚木で、それぞれ朝一番に来て、日課のようにする仕事があるわけだが、すでに開かれていたドアから中に入った比嘉はかろうじて踏みとどまった。
回れ右をして次に来る広報室の仲間を待ちたかったくらいだが、何とか平静を装って、席に着く。
「……空井二尉。その、昨日、稲葉さんはいかがでしたか」
「……心配はもうなくなりました。だから、護衛も無用です」
「それはどう……。いや、えーと」
その顔の明らかに手のひらで殴られました、という感じの湿布と、そこに収まらなかった爪の後なのか、はみ出たところにできた三本線を突っ込みたくて仕方ない比嘉に、目の座った大祐がくるりと椅子の向きを変えた。
「これは稲葉さんに叩かれたんです。暴漢はいませんでした。稲葉さんが親切にしてあげた女子高生がお礼のために稲葉さんを探していただけなので心配無用です。ほかになにか」
「いえっ!丁寧な説明痛み入ります」
くるり。
再び椅子の向きは正面へと戻り、他の隊員たちが来るまで、比嘉は息を殺して気まずい時間を過ごした。
—end