大祐が顔を薄っすら腫らせて広報室に姿を見せた日。
朝、地面にめり込んでいる大祐から話を聞いた比嘉は、朝姿を見せる隊員たちが初めに気づかなければ後から、気づいた者にはブロックサインを送って、大祐に話しかけるのを阻止していた。
柚木が姿を見せてからは、一度室長室に誘導し、事情を説明して手分けすることにして。
鷺坂が朝から席に座っていることは、実はあまりない。
会議や様々な会合に出るために都内にいないことさえある。今日も、朝一番は内局のほうで会議があって、すぐには話ができなかったが、比嘉は鷺坂の携帯に状況を送っていた。
『状況は分かった。今日、片山は出先だと思うけど、もし姿を見せたら羽交い絞めにしてでもいいから黙らせて余計なことは言わせないように』
その指示を待って、皆、いつになく息を殺したように過ごしていたのに、昼前に姿を見せた片山は、全員の想像通りの行動に出た。
「お疲れーい」
着替えてから姿を見せた片山は、いつもの緩い挨拶を口にしながら広報室に入ってきた。
入口に一番近い大祐の席は自動的に目に入るが、いつもは特に触れもせずに自分の席に鞄を置く。
だが、片山の足音と、姿が見えた瞬間、全員が願ったのと反対の行動に出る。
「おまっ!その」
「はい。片山一尉、お疲れ様です。話はあちらで伺いますから」
素早く立ち上がった比嘉が片山の前に立つのよりも先に、槙が立ち上がって片山を背後に回り込んだ。大柄な片山を大柄な槙が羽交い絞めにして、柚木が片手で喉元を抑え込む。
「(おいっ!なにすんだ!お前らーっ!)」
ずるずると暴れる片山をひきずって、広報室から出て行った。
大祐の視界にそれがまったく入っていなかったわけではないが、構われるよりはいい。
廊下を引きずられたまま連れ出された片山は、エレベータホールまで逆戻りさせられてようやく自由になる。
「なにすんだよっ!」
スーツを直して、襟元を直した片山は周りを囲む面々を見回した。
息を吸い込んで姿勢を正した比嘉が片山の正面に立つ。
「いいから、黙ってください。今日のところは空井二尉には触れないであげてください」
「あ?!なんでだよ!あいつ、あの顔」
「何かあったのは間違いないでしょうけど、稲葉さんは問題ないそうです。仕事の電話もありましたから。そんなわけで、とにかく片山一尉にはなにもいうなと、鷺坂室長から厳命がくだってます」
その分、ますます空井二尉は落ち込んでますけどね。
仕事は仕事。公私混同はしない、というどちらかというと、意地を張り倒した、と言えるリカの電話は同じくらいあちらにもダメージがあったように思えたが、今は目の前の大祐である。
「俺がなんで!室長どこいったんだよ!」
口を尖らせた片山の言い分もわからなくはない。だが、片山の無邪気さはこういう時に大騒ぎにしてしまう。それは、全員が避けたいと思っている。
「一度戻ってきましたが、どちらかに消えました。僕らも知りません」
こんな時に、比嘉の鉄壁さは頼りになる。
それは片山も十分にわかっていた。
ちっ、と盛大に舌打ちをした後、片山はしぶしぶながら頷いた。
携帯への連絡と実際に大祐を見た鷺坂は比嘉に後のことをまかせて表に出ていた。
リカが空自の担当を外れ、帝都とのつながりも薄くはなっていたが、代わりの担当はきちんと顔を出しに来ている。その担当を半分脅すようにして阿久津ではなく、藤枝に連絡を取ってもらった。
昼休みに伺います、と言われて藤枝は受付の傍で待っていた鷺坂に近づきながら会釈をする。この人だろうと一番思わないだろう人が鷺坂であると聞いていたが、老練な営業を思わせる姿にためらいを覚えた。
「あの……」
「藤枝さんですね。どうもどうも、お忙しいところに申し訳ありません」
余計なことを言わせる隙を見せずに、鷺坂はどこぞの営業マンのような体で強引に藤枝を表に連れ出した。
「鷺坂、さん、でよろしいんですよね」
「はい。阿久津さんや稲ぴょんからはいつもお話を伺ってます」
改めて、と姿勢を正した鷺坂に丁寧に名刺を出された藤枝は、こちらこそ、とひとまず受け取っておいて、自分の名刺を出す。
「こちらこそ。稲葉がいつも大変お世話になっております」
いえいえ、という型通りの挨拶をすませると、一瞬で鷺坂の態度が砕けた。
「藤枝さん、お昼まだでしょ。和食なんてどうです?」
「あ、はい。是非」
伊達にいろいろな異名を持つわけではない。帝都テレビの近くでどちらかというと上のほうの社員が食事をとる、なかなかいいという噂の和食屋を阿久津から聞き出していた鷺坂は、すでに予約も済ませていた。
店に入ると、鷺坂が名前を言ってあっという間に席に通される。
藤枝も来たことがないとは言わないが、普通にサラリーマンがランチをするには敷居が高い店だ。
「どうぞどうぞ、遠慮せず」
「え……と」
「心配無用です。これは利害関係にかかわらない個人的な、僕のポケットマネーの話なので問題ありません」
さすがにメニューを前にしてそういわれては、断るにも断りづらい。
一番、平均的なランチを頼んだが、それでも三千円を超える。
「急にお呼びたてして申し訳ない」
「いえ。単刀直入に伺いますが、稲葉、またなにかやらかしたり……」
「とんでもない。稲ぴょんは本当によくしてくれてますよ。やっと、わだかまりも消えてこのまま春を待つばかり、とおもっていたんですけどねぇ」
直接的ではないにせよ、なにを言わんとしているのかわかる言い回しを聞いて、無意識に藤枝は目の前のお茶に手を伸ばした。
目線が下がる。
それは、本当に無意識で、無意識だからこそ、普段は誤魔化している心が出た瞬間でもある。
「……この話を藤枝さんに相談するのは、申し訳ない気もするんだけど。どうも空井と稲ぴょんがこじれたらしいんだよね」
「ああ……。なるほど」
珠輝から、情報局に顔を出してくれと連絡が来ていたが、これか、と思い至る。このところ頻繁に飲みに行ってはいたが、そんなこじれるような話は耳にしていない。
「何かあったんですか?」
「……と、いうことは藤枝ちゃんにもまだわからないってことか」
―― おいおい。いきなりちゃん、呼びかよ……
おっさんに、ちゃん付で呼ばれても嬉しくもおかしくもないが、どこまでもプライベートの話だからということなのだろう。考え込みながらのつぶやきに、ついついつられてしまった。
「逆に、俺からも質問なんですが、空井君。なんで付き合わないんですかね?さっさとくっつけよって思うんですが」
「やっぱりそう思う?俺もね、ようやっとあの二人を苦しめてた呪縛みたいなもんも解けて、うまくいくかなって思ってるんだけど、なにせほら。男所帯だし。空井なんかもう奥手も奥手。三葉虫かアンモナイトかって感じなのよ」
「そう、なんですか?」
どうにかしてよ、という鷺坂に、思い浮かべると空井だけでなく、片山も撮影を見学した時に見かけた隊員たちも、男前だが、どうにもその手の話は不器用そうに見えた。
男同士で馬鹿話に盛り上がるのはいいが、女性に対してもアプローチを期待するのは難しい。
「でも、自衛隊相手の合コンも多いし、チャンスは少なくないでしょう?」
「そのチャンスをものにできない残念なところがあるのよ。そこはね、稲ぴょんに期待したいところなんだけど、彼女は彼女で」
「無駄にガツガツですからねぇ」
鷺坂の後を引き取った藤枝に深いため息が続く。
料理が運ばれてきて、さっさと箸を手にした鷺坂はためらいもなくさくりと豆腐に箸を入れるように切り込んだ。
「藤枝ちゃんは、なんで稲ぴょんに行かなかったの?機会はあったでしょう?」
もはや既定の事実の様に言われてしまうことには慣れていたが、どうにも鷺坂相手ではペースが狂う。
「行かなかった、ですか……。やっぱりそう見えますか」
「見える、というには僕は初対面だけどね?話を聞いてたらそうであってもおかしくない、と思っただけだよ」
あくまで客観的な事実である、と断りを入れた鷺坂に、律儀に箸をおいた藤枝はもろ手を挙げた。
「俺はモテたくてアナウンサーになった男ですからね。誰か一人に絞るなんてまだまだ先でいいと思ってますし、まして稲葉は」
「稲ぴょんなら、同士にもなれるし、戦友にもなれる」
「ええ」
今どき、男だ、女だ、ということで即、恋愛関係だと決めつけられるものでもない。
そう思いませんか、という藤枝に鷺坂は目の前の小鉢に箸を伸ばした。
「これ。美味しいねぇ」
春菊の胡麻汚しを口にして、鷺坂は熱い茶を飲む。
「春菊はほろ苦く、ただお浸しにしてもそのほろ苦さが際立つ。でも、こうして胡麻と合わせるとどちらの甘さも引き出して、大人の旨みが出る。稲ぴょんと藤枝ちゃんはこんな感じかねぇ」
男と女だから。
考え方も感じ方も違うから、築ける関係もある。
「俺は、なにをすれば?……といっても、俺ができるのは稲葉の味方くらいですけど」
さりげなく、言外に男として大祐の味方はできない、と言った藤枝を、鷺坂は快く受け止めた。
「当然でしょう?女性が傷ついたり悲しんだりしちゃ駄目。稲ぴょんは特にね。あの子は幸せにならなきゃいけない」
「それ、稲葉ならきっと幸せは自分でなるものだって言うと思いますよ」
即座に切り返した藤枝をおや、と眉を上げた鷺坂はますます面白そうに笑った。
「なるほど?それじゃあ、余計に僕らはできることをするしかないね」
連絡先を交換し、その後の対応を相談してから昼休みの終わりとともに鷺坂と藤枝はそれぞれ店を後にした。
午後になってようやく時間を作って情報局に顔を出す。
姿を見せた瞬間、ポケットに入れていた片腕を珠輝に掴まれて、廊下に引きずり出された。
「ちょ、何。珠輝ちゃん」
「遅いですよ。藤枝さん。元カノが心配じゃないんですか?」
「だから!何度も言うけど俺と稲葉は今までも、これからも付き合ってないし、付き合うこともないの」
例え、それが誰であれ柔らかな手の感触を振り払うことはしない。ましてそれが可愛い女の子なら役得と思うくらいの藤枝だが、今は少しだけ振り払いたい気分でもある。
リカのためではある。
が、同時にそれは大祐のためにもなる。
早くくっついてしまえ。
そう思っているのに、胃のあたりがもやもやするのは、普段食べ慣れていない高い昼飯のせいだ。
「なんでもいいから何とかしてください!」
「だから、なんで俺が!」
あ。
うっかり出た本音にぺろりと唇を舐める。
幸いなことに、珠輝はいつものことと、受け流して何とかしろと繰り返している。それに乗っかるようにして情報局の中へと入った。
すぐに、近寄るなオーラを出しているのは丸わかりのリカの隣に立つ。
「よう、稲葉」
「話しかけないで」
「はぁ?俺なんかした?」
さすがにそのいい様はないだろう。
おいおい、と思っていると、くるりと向きを変えてきたリカを見てますます呆気に取られてしまう。
―― その寝不足の顔と泣きましたってありありと出すなよ……
その場で、周りの視線を遮ってやりたい。そんな衝動に、動きかけた自分を藤枝は抑え込む。
なんとか、リカのほうから飲みの話を口にしたので、頷くだけ頷いて、最後にその頭に手を置いた。
馬鹿だなぁ。
泣くなよ。そんなことで。
泣くぐらいなら、素直になればいいのに。
喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んで、じゃあな、と背を向けた。
誰でもそうだろう。
男なら、女性が萎れていたら慰めるだろうし、まして同僚だ。
そう。同僚だからだ。
ただそれだけを考えて、大きく息を吸い込んだ藤枝は仕事に向かった。
そして、もう一度呆れて、もう一度胸を締め付けられるような思い感じて。
藤枝は約束通り、リカを店の外まで連れ出した後、一度きりのつもりでリカを抱きしめた。
―― お前の……
『この話を藤枝さんに相談するのは、申し訳ない気もするんだけど』
遠くにその姿を見つけて、確かめて、腕を解く前に力を込めてから全力で離れた。
大祐が目の前に来て、リカを連れて歩いていく姿を見る前に藤枝は踵を返した。
ポケットから携帯を出して、目についた番号にかける。
「もっしもーし。あ、……なんだ、留守電かよ」
次の番号を選んでコール音が鳴る。相手が数コールで出なければ、すぐに次をダイヤルする。
大通りに出たところで歩道の柵に寄りかかった。
携帯からは音が聞こえる。
『……午後十時四十六分をお知らせします……』
曇った空を見上げてもそこに星のひとかけらも見えず、周りのビルの明かりだけが眩しい。
通りを歩く人たちと、速度を落とさない車のヘッドランプが光る。
「……帰るか」
そのまま光るライトを頼りにタクシーを止めて、自宅付近まで行き先を告げると携帯のメールを送る。
『無事に会いました。あとは本人次第でしょう』
すぐに返信が着て、お疲れ様、とだけ書かれていた。携帯をすぐに閉じて目を伏せた。
習慣から携帯を傍においていた鷺坂は、短いメールを見てすぐに返信を返す。
「……うまくいった、か」
一人きりの家の中は静かすぎるからテレビをつける習慣ができた。
賑やかなテレビの音を聞きながら、テーブルに置いた携帯を見る。
それはもう、誰がどうできるわけでもないことではあっても、そこにみえているのに、つらい役目を押し付けた藤枝に、すまないと思う気持ちと、それでも幸せを願う心と。
「雨の日があれば、晴れの日もある、ってとこかな」
明日には、一人蚊帳の外に置き去りにした片山を飲みにつれていく約束をしている。比嘉がうまくとりなしてくれるだろう。
そして、また。
一日が始まる。
—end