「比嘉さんの奥様、日本酒を作ってらっしゃるって以前教えてくださったじゃないですか。よろしければ今度ご紹介いただけませんか?」
取材に来たはずの空井の目の前で交わされたそんな会話から思いがけないことは始まった。
コーヒーを運んできてくれた比嘉が挨拶をしたところで、リカがそういえば、と切り出したのだ。
「ああ。それは構いませんよ。むしろありがたいくらいですが……。どうされたんですか?」
いつもの笑顔で応じた比嘉とリカの顔を風見鶏のように交互に見比べる。
日本酒特集と言うのを今度企画しているらしく、比嘉の奥さんの実家も取材したいということだった。テレビ局はそういうことが多いのか、なるべく早い時期がいいという。
「ごめんなさい。なるべくなら早い方がいいんです」
両手を合わせて拝むように見上げるリカは、軽く首を傾げていて、空井から見ると、めちゃくちゃ可愛かった。以前のリカならこんなおねだりポーズでお願いなどありえなかったが、気づけば、リカもすっかり打ち解けていて、そんな姿に空井は思わず見とれてしまう。
あんまりまじまじと見つめていたので、比嘉の視線にだいぶ遅れてから気づいて慌てて顔を上げた。
「空井二尉、今週末はお時間ありますか?」
「え?自分ですか?あ、はい。あいてますけど」
「それじゃあ、僕、なんとか週末、うちの奥さんに話しておきますから、お昼過ぎくらいがいいかな。稲葉さんをお連れしていただけませんか?」
はあ、と頷きかけて、一拍間をおいてからがたっと空井が飛び上がる。
「え?えぇぇぇ?!ぼ、自分がですか?」
驚いている空井を完全に放置しておいて、言うだけ言った比嘉は勝手にリカと話を進め始めた。
「僕は、奥さんと一緒にご案内する準備がありますから。お迎えに行けないので、空井二尉に連れてきてもらってください。週末なら、稲葉さんも調整付きますよね?」
「ええ。こちらこそ助かります。カメラマンの同行が必要な場合は別途調整させていただけますか?」
「もちろん。ひとまずは稲葉さんに取材していただいてからがよろしいかと。時間はお二人で調整してください。こちらに到着するのが昼過ぎだと助かりますので、お昼でも二人で一緒に食べてからきたらどうですか?」
「えっ?!いや、あのっ」
何を自分をのけ者にしたままで話を進めるのかと、慌てた空井が割って入ると、すぐにリカが申し訳なさそうな顔になる。口を開きかけたリカを制して、先に比嘉が口を開いた。
「うちはちょっと場所がね、僕の家ではなくて、妻の実家の方なので、わかりにくいですし、周りに何もないので来るのはちょっと大変なんですよ。空井二尉、申し訳ないですが、車の方で、ね」
建前としては部外者に住所など教えるわけにいかないということもある。それが連れてこられたという形なら何の問題もない。
「えぇっ?!比嘉さん?」
「じゃ、そういうことで。お仕事お続けください」
空井が止める間もなく、勝手に話をまとめた比嘉が、お仕事邪魔しました、と言って自席に戻っていく。はっと気が付くと、リカがじっと空井の顔を見守っていた。
「あの……、空井さん。ご迷惑ですよね」
リカにとっては仕事でもあり、そんなものにせっかくの休日に付き合う男などいないだろう。友人でも恋人でもなんでもないのに、と思ってしまえば、空井の反応も当然と思える。
申し訳ない気持ちよりも、自分なんかと休日を過ごしたくはないだろうという気持ちが先になってしまうことも嫌で、リカは迷惑をかける前にやめましょう、と口を開きかけた。
「あ、いやっ、あの、自分、週末暇ですし、稲葉さんがよければ車を出すくらいなんでもないですよ」
多少、前のめりな勢いで空井がそう言うと、面食らったリカがしばし黙ってからぽつりと言った。
「私も空井さんがいいなら、一人で行くよりも遠地なら……。助かります」
「じゃあ、あとで比嘉さんと時間を調整してからメールでお知らせしますね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
これでリカと週末に、自分の仕事にかかわらないところで会えると思っただけで空井はガッツポーズを決めそうになったが、斜め後ろからきっとあの生暖かい笑みが見守っているかと思うと、それもできず、大きく息を吸い込んだ。
「あ、じゃ、じゃあ、早速ですが、これ。先日お約束していた資料なんですが」
「はい。あ、とても助かります。……なるほど。こちらはこういうボードみたいな形でご紹介するときは、出典としてこの年度の防衛省の資料名をお入れしてよろしいでしょうか?」
「はい。結構です」
「承知しました」
バックからボールペンではなくシャープペンを取り出して、薄目に資料の端に、出典OKと○を付けている。
その指先が、いつもと違うことにふと見ているうちに気づいた。
「あれ。稲葉さん、その爪珍しいですね」
「え、ああ。そうですね。いつもはあまり目立つものはつけないんですけど、これは番組の実験台になったんです」
「実験台?」
ネイルを塗っていることが実験台と言われると、飛行機以外の世間には疎い空井には特に女性ならではのことがわからない。
困った顔をしたリカが、両手を開いて見せてくれた。
爪の先が夕焼けのような濃いめのオレンジとも赤ともいえない色に染まっていて、爪の根元の方は無色透明でグラデーションになっているらしいが、それはただ爪の中ほどから均一なものではなくて、まるで動く雲でも描くように指によっては根元近くから色がついていた。
そして、一筋の真っ白なラインが左手から右手まで描かれていて、思わずそれを見た空井は飛行機雲のようだと言ってしまった。
「あ、すいません。飛行機雲はないですよね。えっと、きれいな線が!」
その言い方に吹き出したリカは、自分でも両手の爪を見て微笑む。
「いえ、合ってますよ。空井さん。これは飛行機雲かもしれませんね」
「あ……。すいません、なんか自分、夕日に向かって行くときのまっすぐなのに、風に流されていくのを見ていたのを思い出して……」
リカがこの爪を塗ってもらう時、グラデーションと白い線に注文を付けたのは全く同じで、朝焼けか夕焼けのような朱色に真っ白い線を入れたいと言ったのだ。ネイルアーティストはイラストによくある蔦のようなイメージをもったようだったが、出来上がりはリカの思ったもの以上だった。
「これ、今度比嘉さん奥様のご実家を取材させていただく企画と同じなんです。なんというか、美容特集みたいな感じで、天然の素材を使ったものなんです」
「へえ……って言っても、すみません。自分、あんまり詳しくないので、ぴんと来ないんですけど」
「日本酒じゃないんですけど、これも、爪を保護するもので、爪が薄くても塗れるし、二枚づめにならなくなったっていう口コミもあって、最近人気なんです」
どうにもぴんと来ないが、少しでもわかりそうなキーワードを拾い上げて、考え込む。
じっと見つめているうちに無意識にリカの手を取ってまじまじと覗き込んでしまう。
「よく……わからないんですけど、天然のマニキュアを塗ってって、保護するために塗らなきゃいけないんですか?」
「ああ。空井さんにはわからないか。女性だと、マニキュアと言うか、爪のお手入れも身だしなみなんですね。ただ、短くしてるとか伸ばしてるじゃなくて、きちんと手入れをしているか。爪が丈夫な人はネイルサロンとかに行って、スカルプとかジェルネイルをすればいいんですが、薄かったり、そういうのをやりすぎて爪が弱ってる人なんかは、しばらく健康な状態に戻るまで、塗れなくなったりするんです。そう言うときに、ここのネイルだと爪を痛めないし、保護してくれるし、その上可愛い色がついているってことで一石二鳥なんです」
途中から宇宙語でも聞いているような顔になった空井が困った顔で何度も頷いているのを見ているうちに、ああ、わかってないんだろうなぁと思いながらも説明していたリカは、笑い出した柚木の方へと顔を向けた。