「あの。自分、本当に、飛行機馬鹿で通ってて、ちゃんと彼女だって言って付き合ったことなんかほとんどないんです。付き合ったとしても、最長で3か月しか持ったことなくて。芳川士長も、ほんと、同期、みたいな感じで何となく、ご飯行ったりとか、その……。でも、どうせすぐ離れるのはわかってたんで付き合うつもりもなかったですから」
―― 付き合うつもりもなかった……
それは今も変わらないのか、どうなのか、追及してみたくなる。
指先についたうろこを弾きながら、鍋の中に視線を落としているつもりで妙に固い声が出た。
「そうですよね。空井さんも、片山さんが言ってたみたいに、すぐ転勤しちゃうなら、働いてる女性なんて面倒ですよね。付き合うつもりなんかないですよね。もう、家を守ってくれるような、家事手伝いの女性とかじゃないと無理ですよね」
「あ、いや、自分、そんなことは全然なくて、逆に僕の方が相手にされないだけなんです!!」
冷やかな声はリカが空井のことを最低な男だと思っているのだと伝えていて、誤解だと何とかわかってほしくてついつい勢いが増してしまう。違うんです!と言った勢いのまま、身と骨をそのまま握りつぶしてしまう。
「あ」
「あ……!ごめんなさい!!」
慌てても、手の中でぐちゃぐちゃになったものはもう、選り分けることさえ困難で、リカが肩を竦めると流しの中のビニール袋を指差した。
「わかりましたから、落ち着いてください。ごめんなさい、私もつい、嫌味っぽく言っちゃって。空井さん、モテるんだろうなぁって思ったから、つい意地悪いっちゃった」
「も、モテたりなんかしません!モテるなら……」
―― 目の前の人にだけモテてみたいです
そんなことは口に出せるはずもなくて。
すみません、と繰り返した空井は、手早くボウルの中から身だけをすくい出した。
選り分け終わる頃には、出汁で煮ていた大根にも火が通り、追加の液体だしと、少しの醤油と塩で味を調えたリカが、最後に選り分けた身を投入する。
捨てる場所をまとめて、手を洗った空井は、急に手持無沙汰になって、離れたところからリカを見た。
「空井さん、気づかなさそうですもんね。モテてること」
しばらく間が開いたからもう終わりなのかと思ったら、リカが続けてきた言葉にあれっと初めて思う。
「……それ、稲葉さんの感想ですか?」
「ええ。空井さん、周りの女性の目を……。一般論ですからっ!!」
途中まで言いかけて、はっと我に返ったリカが慌てて叫んだ。
あくまで、一般論です、と繰り返してガスコンロに向かうリカの顔が、ほんのり赤い気がして、どぎまぎとしてしまう。
―― いや、何だろう。まさか、自惚れていいとか、そういうことか……?
休日にこうして自分と一緒に過ごしてくれて、本当に少しだけ自惚れてもいいだろうか。
誰も入ったことのない部屋。
「稲葉さんこそ、モテるんじゃないですか?」
「私はご存じのとおり、ガツガツですから。それに、報道時代の名残と言うか、まあ……仕事場では色々言われてますから」
ほろ苦い、少しだけひきつった笑みを浮かべたリカは、冷蔵庫からタッパ―を取り出すと、小皿にそれぞれ取り分けて、それからお豆腐も二人分、用意する。
「やだ、本当に定食屋かなにかみたいで恥ずかしい。ごめんなさい、空井さん」
「え?いや、全然!すごい、美味しそうです。店で食べたりするんじゃなくて、稲葉さんちに来たんだって感じがして嬉しいです」
運びますね、と声をかけてリカが用意していた小鉢と、小皿をテーブルに運ぶ。
「すみません。じゃあ、これもお願いします」
「はい」
渡された箸置きと、箸に小丼によそわれた大根と鯛のアラ煮。そして味噌汁とご飯。
申し訳なさそうにリカが用意してくれた夕食を前に大祐はいただきます、と手を合わせた。
「どうぞ!もう、ほんと、ゲストに有り合わせとかもう、申し訳ないです」
「全然。うわ、美味しいです。稲葉さん、本当に料理うまいんですね」
「いえいえ。だから、鷺坂室長みたいな腕前じゃないから本当に苦手なんです。いつも一人で食べるならどんなでもいいじゃないですか。もう人に食べてもらうなんて、何年ぶりだか……」
実家を出て一人暮らしは大学の時からだ。
実家に顔を出しに帰っても、母の手料理を味わう方で、自分が台所に立とうとしても母がさせてくれない。かろうじて、後片付けくらいはできても、たまに帰ったときくらいと言われてしまうのだ。
「本当においしいです。和食党なんですか?」
「……いいえ。あるもので作ったら和食になったっていうことです」
だんだん、褒められているのもいたたまれないのか、リカが渋面になっていく。
それでも、大祐の箸がどんどん進んであっという間に、空になっていくのを見ていると、少しだけ信じていいのかなと言う気になる。
「あの……、よかったらおかわりありますけど」
「いただきます!これ、すごくおいしいです。自分が握りつぶさなかったらもっと食べられたんですよね」
アラ煮の入っていた器に悲しそうな視線を向けた大祐がおかしくて、リカは笑いそうになった。
お茶碗と小丼を手にして立ち上がる。
「あるだけ召し上がってください。一人だといつまでも同じもの食べなきゃいけなくなっちゃうし」
「いいんですか?!」
「食べていただけるなら本望です」
くすくすと笑いながらリカはおかわりをよそって、大祐のもとに運ぶ。
―― なんだか本当に新婚さんみたい
調子に乗ったら、いつものように急降下で落とされる。空井の言動に散々振り回されてはきたものの、今、自分の部屋という空間で、少しだけそれを信じて見たくなる。
普通に言えば、男性を家に招き入れるというのはよほどでないと、そういう相手になる覚悟のはずで、こんな風になし崩しに家に入れて、どうするのだろうと、リカ自身も思う。
ただ、今日一日、少しだけ近づいた空井とあともう少しだけ。
もう少しだけ一緒にいたかった。
自分の部屋や下手な料理も、それを見られてもいいから一緒にいたい。
「空井さん。お酒、出しましょうか」
「あ、はい。お願いします」
そろそろ冷えたはずの酒を冷蔵庫から出してくる。アルコールが入れば運転はできなくなる。
それをわかったうえで、ガラスのショットグラスを出して、空井のもとへ戻った。
「もう一つの方は、もうちょっと冷たい方がいいと思いますけど、こっちの空井さんのもらった方はちょうどいいと思いますよ」
「本当ですか。嬉しいな。じゃあ、ちょっとだけ待ってもらって、僕に片付け、指せてもらっていいですか?」
「いえ、そんなの後でやりますから」
「ごちそうになったんです。このくらいさせてください」
そう言って、二人分の食事の後片付けを始めた大祐に、リカはため息をつくと、もう一回り大きな器を持ってきて、氷を入れた。そこに、日本酒の小ぶりな瓶を入れて、せっかく冷えたものを温くならないようにする。
「あ、すみません。なんか余計な手間かけさせてしまって。急ぎますね」
「いえいえ、片付けてもらってるのは私の方ですから」
空井が洗って、リカが茶碗を拭いて片付ける。いつもなら十分な広さのキッチンが、ひどく狭く思えた。