夕焼けの朱と夕闇の藍 16

夢の中で、何度もリカは空井を呼んでいた。

―― 空井さん、空井さん
―― …… 僕、もう帰りますから
―― 待って。空井さん。帰らないで。置いて行かないで。

時々、空をきる手をそっと握り返されて、安心したリカが深い眠りに戻っていく。

ふと、いつもなら静かなはずの部屋の中で微かな物音を聞き取ったリカがぱち、と目を開けた。

「……?」

身動きする前に目だけがくるくるっと動いて、部屋の中をとらえた。
ソファの前で腕を組んだまま、伸ばした足が時々わずかに動く。

「……えっ」

がばっと飛び起きた音で、その足の主も腕を組んで目を閉じていた頭をゆっくりと上げた。

「おはようございます。稲葉さん。具合、悪くないですか?」
「空井さん?!え、なんでっ」
「あれ?覚えてないんですか?」

ベッドの上に身を起こしたリカが、我に返って、自分の姿を見る。服を着たままだということにほっとしたリカに、空井が苦笑いを浮かべた。

「眠ってる稲葉さんに失礼なことはしてませんよ。稲葉さん、酔っぱらって寝ちゃったので、ベッドに寝かせただけです」
「えっ、酔っ払っ……。あぁっ!!ごめんなさい!!」

一瞬で、昨夜のことを思いだす。慌ててベッドから飛び出したリカが空井のすぐ目の前に飛んできて床に手を付いた。

「ごめんなさい!空井さんが来てくれていたのに、私、寝ちゃうなんて!本当にごめんなさい!!」

寝起きに飛び起きて、土下座しているリカに空井も慌てて座りなおすと、手を振った。

「ああっ、そんな!大丈夫ですから顔を上げてください。全然迷惑なんかじゃないです。逆に僕のほうこそ、図々しく泊めていただいてすみません」
「それは、全然!!ああもう、空井さんのお休みを本当にごめんなさい!」
「大丈夫ですよ。稲葉さん。顔を上げてください」

寝起きというだけでなく、化粧も落とさずに寝てしまったこともあって、俯いたリカは、必死に手櫛で髪を撫でつけながら空井の足元だけを見ていた。
ぽん、と大きな手が頭に乗せられる。

「気にしないでください。それより、稲葉さん。稲葉さんさえよかったら今日、デートしませんか?」
「えっ」

思いがけない言葉にぱっと顔を上げると、空井が笑いながら手を引いた。

「車もありますし、稲葉さんがよかったらドライブデートとか。駄目ですか?」
「あ……、いえ。私は、全然……。でも、空井さん、せっかくのお休みなのに……」
「せっかくの休みに、こうして稲葉さんと昨日からずっと一緒にいられて、僕、楽しくて仕方ないんです。もし、予定がなかったら是非」

その言葉をどう受け取ればいいのだろう。単に、女友達としてなのか、暇だからついでの誘いなのか。
どちらなのかわからなかったが、淡い期待を持ってしまいそうになる。

「……いいんですか?」
「いいもなにも!僕がお誘いしてるんです。着替えて、支度したらどこかに朝昼ご飯でもしに行きませんか。それから、どこか稲葉さんが行きたいところがあったら行って、一緒に食事して、夜はあまり遅くならないうちにお送りしますから」

昨日の服のままの空井が、少し眠そうな顔で、ふにゃっと笑う。初めて見る寝起きの空井の顔に、リカは目を瞬いた。

「嬉しい、です……。私も、空井さんとデートしたいです」

自分も寝起きで、飲んだ後だからきっと顔がむくんでいるかもしれないのに、一緒にいられることの方が嬉しくて勝手に口を突いて本音が出てしまう。
リカの返事に頷いた空井がぐっと片手の拳を握った。

「よかった!じゃあ、僕に構わず、シャワーとか着替えとかしちゃってください。後で、僕も顔だけ洗わせてもらっていいですか?」
「もちろんです!先に、どうぞ、使っちゃってください!」

申し訳なさと恥ずかしさと、今日もデートだという嬉しさとが混ざり合って、ろくに空井の顔をみられない。すぐにうつむいてしまったリカに空井は苦笑いを浮かべた。
リカの気持ちを察したのかどうか、空井はさらりとリカの顔を覗き込む。

「稲葉さん、寝顔も可愛かったですよ」
「みみみ、見たんですかっ」
「そりゃ、見なきゃベッドまで運べませんよ」
「あっ、そうですよね。すみませんっ」

身の置き所がなくて立ち上がったリカは、ひとまず顔だけを洗って、洗面所でバスタオルとフェイスタオルを引っ張り出す。

「空井さん、先に、どうぞバスでも洗面でも使ってください。私、あとで構わないので」

声をかけたリカに向かって大祐は首だけを捻って答える。
女性の方が支度に時間がかかることを考えれば自分より先にリカに入ってもらうべき、ましてや部屋の主である。

「あの、稲葉さん、本当に先にどうぞ、使っちゃってください。女性の方が色々かかるでしょうし、自分、男なんで」
「いや、でも」
「気にされると、僕も気になって覗きますよ?」

ぎょっとして声のした方を見ると、空井が悪戯っぽく顔をのぞかせて笑っていた。
う~、と、唸ってから、確かに飲んだ翌朝の寝起きなんて最悪だと思っていたので、すみません、と頭を下げる。部屋の方にばたばたと戻ってから、空井の目に触れないように着替えを手にして駆け戻った。

「あ、あの、なんでも好きにしてくださってて構いませんから!」
「ありがとうございます。じゃあ、お水かお茶だけもらってていいですか?」
「はいっ」

落ち着きのない女だと思われているだろうな、と思いながら、着替えを洗面所に放り込んでおいて慌ただしくキッチンに向かう。
ポットのお湯で入れたお茶と、ペットボトルのミネラルウォーターをテーブルに置く。

「どうぞっ!」
「ありがとうございます」
「じゃあ、すみませんけど、ちょっと失礼しますっ」

洗面所に駆け込んだリカは、はぁ、と大きくため息をついてから急いでバスルームに飛び込んだ。

投稿者 kogetsu

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