「稲葉さん。また誘ってもいいですか?」
「……え?」
「自分、どこに行くんでもこれを見せたいとか、誰かと一緒に来たいって思ったことなかったんです」
建物だけでなく、海を伝って目の前の道路を抜けて吹き上げてきた風がふわっと空井の髪を撫でていく。
「でも、最近思うんです。ここに来たら稲葉さんの目にどういう風に映るんだろうとか、どんな反応するかなとか、おいしいものだったら食べさせたいとか。きっとそういう場所って稲葉さんの方がたくさん知ってて、なんてことないんだと思うんですけど、ついつい思っちゃって。だから、また誘ってもいいですか?」
リカを見る空井の顔がまっすぐすぎて、それを言葉通りにだけに受け取るべきなのか、好意として受け取るべきなのか、躊躇してしまう。
「あ、あの。その、私、あんまりおもしろくない女だし、空井さん、つまらないかもしれないんじゃないかなと思うんですけど」
目線がうろたえたリカを見て、弾けるように空井が笑い出した。
「稲葉さん、本当にそう思ってるんですか?全然ですよ。自分、稲葉さんといると色んなことに気づかされたり、なんだか色々、すごく違って見えるものがたくさんありますよ」
「嘘っ……」
「嘘じゃありません。自分にとって稲葉さんは……」
稲葉さんは。
その続きを聞きたくて、自然と息を止めて待ってしまう。だが、一瞬、目を細めた後、ふわりと表情が変わって微かに空井は首を振った。
「……だから、また誘ってもいいですか?」
「はい……」
「よっ……、よかっ。あっ!いやっ、……ありがとうございます」
はにかんだように互いに微笑んだ後、手を差し出した空井の手に手を重ねる。
―― これって……空井さん。私、そう思っていいんでしょうか
夢を見てもいいのかと思いたくなる。この重ねた手を握り返したら、これから何かが変わるのだろうか。
「向こうのほうへ大きく戻ることになるんですが、そしたら池の周りに戻ります。稲葉さん、お茶って飲めますか?」
「お茶ですか?はあ、まあ普通に」
リカの気持ちとは裏腹に、空井はリカの手を握って建物から降りる。時折、足元を気にして振り返りながらゆっくり進む。
「ここ、もうしばらく先のほうに行くと、日本茶が飲めるみたいなんですよ。でも、自分一人で行くのは気まずいっていうか……。それで行ったことがなくて」
「……行ってみましょうか?」
子供のようだな、と思いながら先を促すと、嬉しそうに頷いた。
山道のような小道を下りていくと細かな砂利で整った道が広がる。池が見え始めると右手に茶屋があって、左手に回ると資料館のような建物が立っていた。
こっちだと手を引かれていくと、茶室がみえてきて、一服いくらと書かれている。
「お茶って、お抹茶ですか。……私もあんまりお作法を知ってるわけじゃないんですけど」
「そうなんですか?じゃあ、自分だけじゃないってことで」
茶室の手前には気軽に一服できる床几がおかれていた。
「いらっしゃいませ。お茶いかがですか?お茶室でいただくこともできますよ」
「ここでもいただけるんですよね?」
「ええ。お点前を知らなくても大丈夫ですよ」
「じゃあ、お願いします」
茶室よりは気楽に飲める方を選んでガラス張りの表が見える所へ腰を下ろした。
すぐに干菓子が運ばれてきて、困った顔をしている空井にくすっと笑いながら指先で摘まんだリカが可愛いですね、と呟く。
小さな花の形を無意識に出した舌の上に乗せて、口の中へ運ぶ様を思わず見惚れてしまう。
「ん……。おいし」
「!……っ」
慌てて口に放り込んだ空井は、口に入れた瞬間、口の中の水分と混ざり合って溶けていく砂糖の塊を感じた。
今、この瞬間、リカと同じ感覚を味わう。
「お待たせしました」
二つ分の茶碗が運ばれてきて、リカと空井の間に、それぞれ黒っぽい茶碗と白っぽい茶碗の二つが置かれる。
気にせず好きなように飲んでいいのだと言われれば、いくらか肩からは力が抜けてハードルが下がった。
「いただきましょうか。私も詳しくないから。一応、三口で飲み終えるみたいですよ?」
両手でさりげなく空井に見せるように茶碗を包み込んだリカが、表に描かれた模様を眺めながら口元に運ぶ。それに倣った空井が茶碗を手にすると、予想よりも温度の高い茶を泡ごと飲みこんだ。
「三口って、難しいですね」
ほぼ一口半で飲んでしまった空井にくすくすと笑いながら、飲み口を指で拭ったリカが茶碗を置いた。
「こういうの、いつか習ってみたいものの一つなんですよね」
「そうなんですか?」
「ええ。お花とかお茶とか、そいういうお稽古事ってやれたらかっこいいじゃないですか。着物が着られるとか。そういうのやってみたいんです。機会なんて作らないとないんですけど、今は局の近くにも家の近くにもちょうどいいお稽古場がなくて」
今度はリカが払います、と言って会計を済ませて建物を出ると、ゆっくりと歩いて出口へと向かう。これだけの広さの場所にいると日が傾いていく時間の流れが手に取るようにわかる。
明らかに夕方に向かっているのを感じながら、出口へ向かうのが切なく感じた。
「空井さん、ここにはいつも何時頃にくるんですか?」
「そうだな。別に意識したことなかったけど、この時間はあんまりないかな」
振り返った瞬間、朱に染まり始めた空が目に入る。
空井の横顔を見たリカは、繋いでいた手に力を入れた。
ふっと視線を戻した空井に、行きましょうか、と自分からリカは呟く。
ほかのどこにも行ってほしくないからこそ、自分から促す。
リカの想いには気付かないのか、そのまま空井は頷いてゲートを出ると車へと戻る。ロックを解除するとハザードが点滅して、どうぞ、という空井の声を聞いてから助手席のドアを開けた。
「稲葉さん。夕食、何か食べませんか?時間がいいならですが」
「あ、はい。空井さん、何がいいですか?」
「僕、なんでも食べますよ。稲葉さんの好きなもので」
いきなり仕事を突き合わせたところから、お酒を飲む羽目になって、ごくプライベートな自宅に泊まってもらって、翌日はこうしてデートになって。
どこにむかうかを決めてから車を動かそうと思った空井はリカの考え込んだ顔を見て、うーんと呟く。
「なるべく、早めに帰れるようにするんで、稲葉さんの家の近くでも構いませんけど」
「……じゃあ、空井さんの家ではどうですか?」
「はぁっ?!じぶっ、自分の家ですか?」
「ええ。だって、空井さん、昨日は強引にうちに来たじゃないですか。なんでもいいんだったら空井さんの家ではどうですか?私、作りますし」
思いがけないリカの言葉に真っ白になった空井は、それでもリカが言うように、強引に女性の部屋を訪ねたということだけは頭にあったので、今の部屋の中を思い浮かべた。