夕焼けの朱と夕闇の藍 3

携帯からリカにメールをするのは、あまり多いことではない。そもそも仕事相手に個人的なメールを送るのもおかしいので、せいぜい待ち合わせの連絡や遅れます、などの事務的なものが今まではほとんどだった。

―― やばいな。俺、メール打つだけでもどれだけ時間がかかってるんだろう

思い切りが悪いわけではない。ただ、何度も書き直してしまうから時間がかかっているわけで、一人部屋の中で携帯片手に格闘する姿はもうすごく情けなかった。

『稲葉さん。明日ですが、11時頃ではいかがでしょうか。少し早いのですが、比嘉さんのご実家まで向かう道は普段からだいぶ混むそうなので、よろしければ途中でお昼でもとりながら時間調整して向かってはどうかと思います。ご都合、聞かせてください。よろしくお願いします』

当たり障りなく、昼も前もってどこかでとりましょうと書いておけば下心で誘ったようには思われないだろう。

送信してからほっとして、コーヒーでも飲もうかと立ち上がった瞬間になりだした携帯にびくっとする。
メールかと思っていたが、着信で、飛びつくようにして携帯を開いた。

「はい。空井です」
『稲葉です。夜分に申し訳ありません』
「あ、いえ。こちらこそ夜分にメールしちゃってすみません」

携帯を握ったまま、相手に見えるわけでもないのにぺこぺこと頭を下げてしまう。
電話の向こうでは、リカも家なのか、いつもの仕事の電話とは少しだけ声が低くて柔らかい気がする。

『私の方がお願いしてますから。気になさらないでください。それより、本当に、せっかくのお休みいいんですか?』

何をいまさら。
そう言いそうになって、ぱしっと口元を押さえた音が聞こえてしまう。

『空井さん?』
「あ、なんでもないんです。もちろん大丈夫ですよ。稲葉さんのお供ができるなんて光栄です」
『お供なんてそんな……。私は仕事ですけど、空井さんは……ぷ、プライベートの時間を申し訳ないなって……』

親しくなればなるほど、リカという人はひどく気遣いの人で初めて出会ったころの無遠慮さが嘘のような気がしてくる。それも今では、仕事のためにまっすぐだったからだとわかっているからなんて不器用な人だと思う。

「……いいんです。稲葉さんのお手伝いならいくらでもしますよ」
『ありがとうございます……。楽しみにしてます。空井さんとランチ』
「はい。僕も楽しみです。何か食べたいものがあったらいくらでも言ってくださいね」
『じゃあ、明日。11時頃にお待ちしてます』
「はい。じゃあ、明日11時に迎えに行きます」

じゃあ、と言って電話を切りたくなかったが、今日だけは空井の方から先に電話を切った。いつもは自分が切るまでリカが電話を切らずにいるから、このままだったら明日迎えに行く時まで切らずにいたいくらいだった。

切った電話がまだ繋がっていればいいと思って、自分から切った電話なのに一度、耳に当ててみる。

―― まだ声が聞こえればいいのに……

明日のルートを確認して、リカの家まで余裕を持ってつける時間を割り出して、早めに横になる。明日、リカと一緒に出掛けることや、助手席にリカが乗ることも考えられないくらい、ただひたすら楽しみで仕方がなかった。

約束の時間よりもまだだいぶ早いくらいだったが、とっくに部屋の中で支度を済ませていたリカは、落ち着かないまま、何度も早めに家を出ようか、どうしようか迷っていた。

―― どうしよう。あんまり早めに行って待っていたら待たせたと思わせるかもしれないし、でも、空井さん、仕事の時は時間きっちりって感じだし……

携帯を手にして1分刻みで迷っていたが、15分前に余裕を持ってと自分に言い訳をして家を出た。
リカの家の前と言うのはさすがに申し訳なさ過ぎて、人形町の駅のすぐ傍を待ち合わせ場所にしていたので、少し歩き始めると携帯にメールが入る。

『おはようございます。稲葉さん、少し早目についてしまいました。もしお支度ができているようでしたらいらしていただけますか?』

丁寧なメールにリカは早足になる。角を曲がったところで空井の青い車を見つけた。
駆け寄ったリカが助手席側から覗き込むと空井が中からドアを開けてくれる。

「お待たせしてすみません!おはようございます」
「おはようございます。すみません、急がせてしまって」
「いえ、ちょうど早めに家を出たところでしたから」

助手席に乗り込んでシートベルトを締めたリカは、なかなか直視できなかった私服姿の空井を見た。

「空井さん、今日はスーツじゃないんですね」

以前、休みの日に鷺坂の家にお邪魔した時も、防衛大に行った時も、スーツにノーネクタイ姿だったが、今日はもう少しだけくだけてみえた。

「あ、いや、はい。あの、比嘉さんから酒蔵の中にも入れるようにって言われたので、スーツにスニーカーと言うのもあわないじゃないですか」
「なるほど。なんだかすごく新鮮です」

ジャケットに、柔らかめのパンツを合わせて、足元はよく見えないが黒系のスニーカーのようだ。
制服はブルー系だし、スーツもブルー系かグレーなので、黒っぽい服装は思った以上に新鮮である。

「ありがとうございます。稲葉さんはお休みの日でもあまり雰囲気、変わりませんね」
「そうですね。女子はあまり……差がないかな」

そんな風に言ったリカは、いつものようにパンツスタイルで、足元だけがいつもよりも華奢なヒールに見えた。正直、空井のように制服があるわけではない分、服はある程度ないとバリエーションとして着まわせない。
結局、わざわざオフのための服と言うのは少なくなってしまうのだ。

ただ、今日だけは少しだけヒールが華奢で高い。
いつもはどのくらい歩いても疲れない程度の7センチ程度のヒールが多い。それなのに、今日はもう少しだけヒールが高くて細いのは、車で送ってもらえるというのと、空井と二人で出かけるということで少しでも女子らしくしてみたかったのだ。

ふっとリカの顔を覗き込んだ空井が声をかける。

「じゃあ、行きましょうか?」
「はい。お願いします」

ゆっくりとギアを切り替えて車が滑り出した。

投稿者 kogetsu

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です