「この前飲んだ時に、稲葉さん、藤枝さんのこと友達としてはいいやつなんだけどって言ってたじゃないですか。それに、藤枝さんも彼女さんらしい人と腕くんでたし。だから、誤解だったんだってわかりました」
「えぇ?!」
それを聞いて、ますますリカの方は悲鳴に近い声を上げて、空井の手を思わず掴んだ。
まさか、二人で飲みに行こうという誘いを断ったのは、まさかそんな誤解が原因だったなんてことはないだろうか。だんだん喉が渇いてきて、いてもたってもいられない気分になる。
「まさか、空井さん。その時からこの前一緒に飲みに行くまでずっと、藤枝のこと、私の彼氏だって思ってたんですか?!」
「すいません……。でもほら、PVの撮影にも見に来るくらいだったからてっきり……」
「嘘でしょ……。誤解です!よく飲みに行くからそういう誤解をされること、多いんですけど!大きな誤解ですから!!」
突然、怒鳴りだしたリカに驚いた空井ほーほは、左手を掴まれたままで、器用にギアを動かしてハンドルに手を添える。止まっては動き、じりじりと動いては止まる車の流れを見ながら、少し進んで再び止まる。
飛び上がる様に驚いて、それから今にも泣きそうなくらい怒り出したリカに目を白黒させてしまう。
―― あれ?でもなんで今、泣きそうに見えたんだろう?
ほんの一瞬、縋りつくような表情が、空井の胸に突き刺さる。男としてはあわよくば、いい方に解釈したくなるような一瞬。
「でも……、空井さんにはきっと関係ないからそんな風にいえるんですよね」
「えっ?」
「私がどんな人と付き合ってようと、付き合ってなかろうと空井さんにはきっと関係ないからそんな風に……」
「稲葉さん?」
まっすぐに前を見つめたまま、厳しい顔でそう呟いたリカが泣きそうな顔でそう言うと、もういいです、と小さく呟いた。
「あ、あの、稲葉さん。自分、何か失礼なこと」
「いいえ」
急に固い声になったリカがどうして急に機嫌を悪くしたのかわからなかったが、それがもしかしたらという思いと、プライベートの時間だということがアクセルを踏ませた。
「僕、稲葉さんに彼氏がいてもいなくても、顔を見て帰ろうかなって思ったくらいだったので、今は誤解だってわかって嬉しかったですよ?」
「……!」
―― 心臓が飛び出すかと思った……
まさか。
そんな、あるはずない。
またいつもの、空井特有の話す順番がおかしいからだろう。そう思っておかないと、舞い上がった心はなかなかきれいに着地できずに不時着してしまう。
「空井さんっ、誤解、誤解がわかっても」
「ええ。僕には関係ないかもしれないけど、嬉しかったんです」
「空井さんこそ!今はいないようなことおっしゃってましたけど、自衛隊の方っておっしゃるよりモテるみたいじゃないですか」
うっかり口に出してからしまったと思う。
取材するようになってから、広報室の面々はなかなか出会いもなく持てないようなことを言っていたが、実際にはそんなことはないと耳にすることも少なくなかった。特に、パイロットは人気が高くて、戦闘機のパイロットで、しかもブルーインパルスに乗れるようなエースパイロットだった空井が、そのルックスだけでももてなかったわけがない。
そう思ってからずっと気になって、聞きたくて、怖くて聞けなかったのに、勢いで聞いてしまったなんて。
余計なことを、と動揺しているリカには気づかずに、空井は顔文字のような表情で首を振った。
「稲葉さん」
「はい」
「そういうのは、もっとかっこよくて、ナンパや女性に声をかけるのがうまい奴だけの特例です。ほとんどは男ばっかりで過ごしてますから気が利かないし、女性に慣れてないので、発言全部が引かれますよ」
片山さんの合コンを思い出してください、と言われると、ああ、と思う。確かに、相当残念な感じだったのは確かだ。黙っていれば片山も、男前だし、身長も高いし、モテそうだがあのキャラクターが災いしているような気がする。
「でも、片山さんは特殊な例じゃないんですか?空井さんはそんなことなさそうですけど」
「ははっ、それは買い被りですよ。稲葉さんだからこうやって、僕と普通に話してくれてますけど。あ、聞いてないんですか?」
少しずつ流れては止まる高速はまだまだ長く続きそうで、合流と出口が見えてきたところで、空井は一度、高速を降りることにした。カーナビがあれば道はある程度、間違わずにたどり着けるだろうし、何とかなるだろう。
何がきいていないのかと、話の続きを待っていると、照れくさそうな顔でちらりとリカを見た。
「僕、この前佐藤さんと食事に行ったじゃないですか」
「あ……。ええ。あの時は……」
「次の日、比嘉さんや片山さん達にも捕まったんですけど、もう情けないったらないんですよ。僕、しゃれた店も知りませんし、原宿なんか、逆に佐藤さんにエスコートされてるみたいになっちゃて。しかも、何か聞きたいことありませんかって言われても何にも思い浮かばないし」
―― あー……。それは確かに、あの珠輝じゃ空井さんには、ちょっと難しいよね。私とは違うし……。って、私、何上から目線なこと言ってるの?!
「あっ、はあ……」
「それで、好きな飛行機なんですかとか、もう自分でも残念すぎてもう笑うしかないですよ」
「好きな飛行機、ですか」
きっと空井にとっては、ブルーインパルスに違いない。
自分だったら、なんて答えるだろうか。
―― 私だったら……
「私だったら、T-2 かな……」
「えっ、稲葉さん。T-2 がお好きなんですか?」
「ええ。T-4 もまるっこくて可愛いなって思ってますけど、いただいた資料とか、過去の写真とかでもカラーリングが特別仕様のやつなんかすごくかっこよくて」
思い出すようにリカが手でシャープな機体の形を何となく描くと、口元を一文字にして何度も空井が頷く。
空井が子供の頃に見たブルーインパルスも、T-2 だった。
「そうなんですっ!僕が見たのも同じですよ。あれが本当にすごくて。ブルーは色々あって、僕が見た後、しばらくの間、展示飛行が出来なくなっていた時期があって、余計に、もう一度あれを見たいって子供心に思ったもんです」
まさに紺碧の中を飛ぶブルーの機体からカラフルなスモーク。
今はもうないが、あの虹のような色にどれほど憧れただろう。
もう渋滞の列から外れて一般道を走っているのに、空井の脳裏には目に映る今の道路や、時折目を向けるカーナビの向こうに青い空が広がっているような話しぶりだった。
そんな空井を見ていても、以前のような申し訳なさは感じない。
ただ、好きで仕方がないものの話を夢中でする。
そんな子供のような空井の姿に、リカはしみじみと本当に好きなんだなぁと思う。
「空井さんの傍にいたら大変ですね」
「なんでですか?」
「だって、大好きな飛行機の話ばっかりでちっとも話を聞いてもらえなさそうじゃないですか」
からかうようなリカの言い方に、空井はハンドルに両手を預けてリカを見た。
赤信号で、停止した車の中でじっと見つめていると、リカの方が先に視線を逸らす。
「僕が本当に好きな人だったら、その人の話を聞かないなんてことは絶対にありませんよ」
「あ……、そ、そうですよね。そりゃそうですよね。スミマセン。私、なんか、変なことを」
「いえ、そう見えちゃいますよね。こんな飛行機馬鹿、呆れちゃうでしょ?僕なんかの傍にいてくれるような人、なかなかいないですよ」
笑いで誤魔化した自分の本心を、自分自身でも計りかねてしまう。
伝えたいのか、伝えたくないのか。
今ならばと自惚れていいのか、困らせるだけなのか。
カーナビにうつった時計を見て、ふっと息を吐いた空井は、不意に話を切り替えた。