夕焼けの朱と夕闇の藍 9

素材としてはかなりいい、取材ができた。
パタン、とリカがビデオのモニターを閉じたのが取材の終りのサインになる。

「はい。どうもありがとうござました。場合によっては、別途、お日にちを決めさせていただいて、撮影だけ入らせていただくことがあります。その際はまた、ご相談させてください」
「はい。わかりました。工程上、どうしてもお断りする日があるかもしれませんので、その時は」

佳代子と締めの話をして、最短の放送日がいつになるか説明を終えると、ふっとリカの表情が変わった。

「これでお仕事が終わりだったら、稲葉さん、ぜひ、お酒飲んでいかれません?」
「あ、それはありがたいんですが……」

ちらりと空井の方をみる。運転してきてもらった都合上、空井は酒を飲むわけにはいかない。申し訳ないからとおもったリカに空井が柔らかく微笑んだ。

「僕のことは気にしないでください。どうぞ、稲葉さん」
「いえ」
「ああ、運転されますもんね。今日のところは、稲葉さんのナイトに徹していただくことにして、ね?少しだけ」

佳代子は、すぐに戻るからと言って奥へと入っていく。
残された空井とリカが正面を向くと、それまで静かに笑ってただ、背後についていた比嘉が二人の視線を受け止めた。

「すみません。うちの奥さん、あれで、今日はだいぶ舞い上がってるんですよ。取材なんてあんまり受けたことないし、それに、僕、自分の仕事関係の人をあの人に合わせたの、実は今日が初めてなんです」
「えっ、そうなんですか?」

思いがけない比嘉の言葉にリカだけでなく空井も驚いた。
鷺坂だけでなく、空幕広報室の面々は自称編隊長の鷺坂をお父さんに、小暮班長を奥さんにして、長男片山、長女柚木、二男比嘉、三男空井、甥っ子の槇と石橋、と言う風に、本当の家族のような構成に見える。

それに、民間企業とは違って、彼らのような組織は、プライベートも含めた管理がいるわけで、どこか大きな家族というイメージが付きまとう。

「僕の奥さんは民間の人で、ましてこういう、商売ごとの仕事をしてますから、そこに僕の仕事っていう雑味を混ぜたくなかったんです」

造り酒屋だからなのか、比嘉は雑味、という表現を使う。
確かに、そこには無用の雑味かもしれない。だが、夫婦や人とのかかわりとしては完全に無縁と言うのは難しいのではないかと思うが、比嘉は彼らしい飄々とした雰囲気で笑ってみせた。

「そこはね。調整力が物を言う広報の人間ですし?仕事をしている民間の奥様達もそうですけど、そういうことに関わりだしたらものすごく大変だってわかってますから」

奥への入口へ首を振った比嘉が、空井達が知る以上に愛妻家であることがほの見える。
それならなぜ空井とリカをここに招いたのだろう。
リカが取材の申し込みをした時も、とてもあっさりと引き受けたように思えて、空井はその疑問を口にする。

「でも……、比嘉さん。稲葉さんの取材、ものすごくあっさりと引き受けましたよね?」
「僕、稲葉さんのこと、信用してますから」

あっさりと放られた言葉は曲線を描くこともなくまっすぐにリカに届いた。まるで放たれた矢を追うように、空井は比嘉の顔からリカへと視線を移す。

「僕、稲葉さんと一緒にお仕事させていただいて、信頼できる方だなって思ってますからその方の取材なら即答できます。それにね、今まで僕、うちの奥さんの仕事に貢献できたこと、ないのでこういう機会にできることをやってみたかったんです」

茶目っ気たっぷりな比嘉に空井もリカも思わず笑い出したが、思いがけない比嘉の言葉がリカには響いた。いつも、ガツガツだの何のと言われて、面倒な相手だと思われているだろうと頭から決めつけていた。
多少、打ち解けてきて、少しずつ関係性ができてきたことはよかったと思っていたが、仕事を信頼していると言われたことは大きい。

比嘉の信頼が嬉しかった。

「お待たせしました。これ、女性に人気なのよ」

淡い、桜色のすりガラスのグラスと酒の瓶と、小さな小鉢を佳代子は運んできた。桜色のグラスはリカの前に、空井と比嘉の前には湯飲みを置いた。

「哲さん、稲葉さんに……」

比嘉を立てて、比嘉の前に差し出すた佳代子は比嘉の隣に腰を下ろした。ぱきっと軽い音をさせて、アルミのキャップを外すと、壜の中で細かい泡が立ち上るのが見えた。

グラスに注ぐとそれはよりはっきりする。

「あ、炭酸なんですね」

最近では流行になった日本酒の炭酸だと思ったリカはそっとグラスに手を添えて、その冷たさにおや、と思う。

いただきます、と目の前でグラスを取り上げたリカは口にした瞬間、驚いた。

「あ……っ」

隣りに座っていた空井が、思わず咳払いして顔を逸らす。

―― なんて声をだすんですかっ!稲葉さん……

「ふふっ」
「なんですか?これ……」
「日本酒の炭酸ってほんとにやってみたらおいしくて。おいしいから、ほかにない何かを足せないかなって思ったの」

口に入れた瞬間、凍る寸前の温度が炭酸のせいで口に入れた瞬間、氷が解けるように口の中で広がって溶けた。

「氷になる直前の、ぎりぎりの温度で飲んでもらうの。いいでしょう?」
「はい。すっごくおいしいです。それに、二口目からは全然違う……!」

目を輝かせたリカの表情が口にした酒と同じようにその場にいる空井や比嘉や佳代子に広がって溶ける。

「あぁ、嬉しい。稲葉さんに喜んでもらえたわ」

嬉しそうに顔の前で両手を合わせた佳代子に比嘉がよかったね、と頷いた。
比嘉は、そのまま空井の前に置かれた湯飲みを勧めた。先ほど、甘酒を飲んでいるからと濃いめの茶を入れてきたらしく、それも口の中に残るほのかに甘い風味を洗い流していくようでとてもおいしかった。

お茶請け代わりに小鉢に入っていたのは、黒っぽい豆の粒で、何だろう、と空井が覗き込んだ。

「それは大徳寺納豆とか、浜納豆って言われる奴です。麹菌を使って作るのでそんなにたくさんじゃないんですけど、うちでも作ってるんです」
「あ、これおいしいです。お酒飲みたくなりますね」
「本来はね。そっちなんだけど、甘酒のお供にもお勧めですよ」

グラスの日本酒を飲みながらリカも一粒、箸で摘まみあげると掌にのせてから口に放り込む。

「おいし。これ、やばいです。組み合わせ、やばい」

もっと飲みたくなる、というリカはすでに壜の半分ほども飲んでしまっていた。それほど大きくない小瓶だから、残りもあっという間に飲んでしまいそうだ。

「これ、もっとたくさん飲みたいって言われませんか?」

飲める人ならぐいぐい飲んでしまうとあっという間になくなってしまうくらいの量だけに、名残惜しそうに飲んでいるリカに、佳代子が残りの分をグラスに注ぐ。

「本当は、そうしたいところなんだけど。この温度と後味を楽しんでもらうには、こうして表に出しておくとどんどん温度が上がってしまうでしょう?これくらいの量が限界なんです。いちいちワインのように氷で冷やしながら飲んでくれるなんて、なかなかないですしね」
「あ、でも冷酒ってこう、氷で冷やしながら飲みますよね?」
「ただ冷やすんでも駄目なの。凍るかどうかの温度って、意外と繊細なんですよ。そこから外れたら後はもう温まっていくのを引き留めてもダメ。女性のハートのように、溶かすなら一息に行かないと。ねぇ?空井さん」

いきなり話を振られた空井が飛び上がって驚いた。危うくお茶を零しそうになって、あたふたと湯飲みをテーブルに置く。

「だってそう思いません?溶かしかけた女性のハートをそのままにしておくなんて、弄んでるみたいじゃないですか。そのくらいなら一息にハートを溶かしきって、自分のものにするくらいが素敵じゃありません?」
「や、あの、自分、よく……」
「佳代子さん。駄目ですよ。空井二尉はそのあたりの男女の機微にはまだまだですから」

急に視線が集まって、うろたえた空井を見ながら比嘉は楽しそうに隣に座る妻に首を振った。

投稿者 kogetsu

「夕焼けの朱と夕闇の藍 9」に6件のコメントがあります
  1. いつも すてきな お話をありがとうございます。 狐さんのお話が好きです。 読めること、幸せです。
    これからもよろしくお願いします。

    1. dora様

      ありがとうございます。今夜はこちらまで手が回らないかもしれないです(T-T
      某所でアクセルを踏み込んでいまして、さすがにあれだけ書いていると、だいぶ削られているのでパワーが足りなくて・・・。
      でも、コメントありがとうございます。嬉しいです。
      沢山、想いはあって伝えたいのに、伝えきれない自分のふがいなさが悔しくて、じりじりしてますが、引き続き頑張ります。
      また、コメントいただけると嬉しいです。

  2. いつも すてきな お話をありがとうございます。 狐さんのお話が好きです。 読めること、幸せです。
    これからもよろしくお願いします。

    1. dora様

      ありがとうございます。今夜はこちらまで手が回らないかもしれないです(T-T
      某所でアクセルを踏み込んでいまして、さすがにあれだけ書いていると、だいぶ削られているのでパワーが足りなくて・・・。
      でも、コメントありがとうございます。嬉しいです。
      沢山、想いはあって伝えたいのに、伝えきれない自分のふがいなさが悔しくて、じりじりしてますが、引き続き頑張ります。
      また、コメントいただけると嬉しいです。

  3. いつも すてきな お話をありがとうございます。 狐さんのお話が好きです。 読めること、幸せです。
    これからもよろしくお願いします。

    1. dora様

      ありがとうございます。今夜はこちらまで手が回らないかもしれないです(T-T
      某所でアクセルを踏み込んでいまして、さすがにあれだけ書いていると、だいぶ削られているのでパワーが足りなくて・・・。
      でも、コメントありがとうございます。嬉しいです。
      沢山、想いはあって伝えたいのに、伝えきれない自分のふがいなさが悔しくて、じりじりしてますが、引き続き頑張ります。
      また、コメントいただけると嬉しいです。

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