空井は、自分の家の傍の駐車場に車を停めると、シートベルトを外した。
「おりましょうか」
「……はい」
車を降りると、リカに手を差し出して歩き出した空井は、自分の家とは逆の方向へと歩き出した。駅の近くまで行けば飲み屋などたくさんある。空井の家がどこかは知らないリカは黙って空井の後について歩いていくと、空井が一軒の店の前で立ち止った。
「ここ。美味しいんですよ」
「空井さん?」
「稲葉さん。相手が誰でも、簡単に男の家に行きたいなんて言っちゃ駄目です。男はどんな感情があっても女性を相手にできるんです。まして、稲葉さんみたいにきれいな人は絶対だめですよ」
苦笑いを浮かべた空井は、リカの手をそのまま持ち上げた。
本当は、離したくない。
そう思いながら空井はその手を離した。
「食べて、飲んだら電車で送ります」
―― 私、……無理言って、家にまで押しかけようとして迷惑だから空井さん……
「すみません。私……」
「え?!ちょ、待って。稲葉さん!どこに行くんですか!」
身を翻してどこともわからずに歩き出したリカの腕を空井が掴んだ。
「だって!……っ、空井さん、迷惑だったんでしょう?だからっ」
「違いますって!だから!帰したくなくなるからだって言ったでしょ?!」
間近でリカの目を覗き込んだ空井は、リカの腕を掴んだまま引き寄せた。
「稲葉さんを、帰したくなくなるから……。だから、今日は自分の家には連れていけません。わかって……くれますか?」
「あの……、それは……」
「今日は、楽しみましょう。美味しいもの食べて、飲んで。でも……」
それはどういう意味かと聞きかけたリカを遮って、空井はリカに笑いかけた。
「行きましょう!さあ」
強引なくらい強くリカの手を引いて店に入った。空井につられるように、オーダーされたビールと、空井のおすすめのメニューを食べていくうちに、初めに思っていたようなことはリカも考えなくなる。
空井がそれだけ楽しげにしていたからに他ならない。
本当に空井が迷惑だと思っていたならこんな顔はしなかっただろう。
本当に楽しそうで、時々、眩しそうにリカを見つめる空井が、帰したくないと言ったのは本当なのだろうか。
それを考えているだけでもふわふわしてくる。
「稲葉さん、それ本当に信じるんですか?」
「だって、絶対おいしいって言ってたんですよ?」
「だって、刺身にマヨネーズですよ?ありえないでしょう」
「じゃあ、試しましょうよ」
刺身の盛り合わせを頼んだリカは、ついでにマヨネーズをと頼んだ。オーダーを取りに来た若い女性はテーブルの上とオーダーを見て怪訝そうな顔になる。
ビールを飲みながらすっかり面白がった顔の空井がきょろきょろとリカと店員の顔を見比べていると、リカは堂々と店員に向かって口を開いた。
「後で唐揚げも頼むつもりだから先に頼んでおこうと思って。一緒に頼むといつも変だってからかわれるの。……彼に」
それを聞いた店員はマヨネーズ好きの女性はよくいるし、彼にからかわれたくないというリカの気持ちもわかる気がして、ちょっと変だな、という気持ちよりもリカの方を優先したらしい。
頷いて、刺身と一緒に小さな器にマヨネーズを入れて持ってきてくれた。
「……どうぞ?稲葉さん」
「わかってます!」
醤油皿に醤油を入れたリカが刺身を醤油につけた後、その上にマヨネーズをそっと乗せた。
面白がって見ている空井の目の前でぱくっと一口で食べる。
微妙な顔をして見せたリカにくっくっくと笑い出した空井は、ほらね、と言いかけた。
「稲葉さ」
「なんちゃって。空井さん。食べてみてください。騙されたと思って。美味しいですよ」
「またまた。稲葉さん、さっきもそうだけど、よくそうさらっと嘘つきますね」
「嘘じゃないですよ。やだなあ。空井さん疑り深いですよ」
さりげなく彼と言ったことも。
笑顔に隠したリカの顔を見て、空井も箸を伸ばした。
カツオの刺身を醤油につけてからマヨネーズをつける。
「あれっ」
驚いた顔の空井に今度はリカの方が目をくるっと回して悪戯っぽく笑った。
「空井さん?」
「や……、なんか、意外と言うか……」
「何でしょう?」
頬を染めて口元を覆った空井の長い指がリカの目に留まる。
「……なんだろう。すっげぇ悔しい」
「正直にいきましょうよ。そこは」
「いや、俺、もう今日は十分正直にいきすぎたとおもってるんで。これ以上はどうかな」
ちらりとリカを見上げる目にドキッとする。
視線を逸らしたリカを見て、小さく笑った空井は腕時計を見た。
「稲葉さん。そろそろ送ります。明日も早いですよね」
「あ、でも私全然大丈夫ですよ。まだ早いですから」
「お・く・り・ます」
いいきられてしまえばあとは流れに乗るだけだ。割り勘に持ち込んで、会計を済ませると店を出て駅の方向へと歩き出す。酔いを軽く引きずりながら駅に着くと電車を乗り換えてリカの家の近くまでたどり着く。
「じゃあ。今日は楽しかったです。ありがとうございました。つきあってもらって」
「いえ、私も楽しかったです。空井さんの秘密の場所に連れて行ってもらって嬉しかったです」
「秘密でもなんでもないですよ」
かつん、とヒールを鳴らした足元に互いに視線を落とした後、空井が口を開いた。
「稲葉さん。PVが出来上がるまで付き合ってくださるんですよね?」
「はい。密着させていただく予定です」
「じゃあ、PVが出来上がって色々一段落したら、また誘っていいですか?」
「ええ。もちろん」
よかった。
今日一番じゃないかという勢いで破顔した空井が、そっとリカをマンションの中へと押しやる。
「稲葉さん。次は、うちにも来てもらいますから」
「はい。……えっ?!」
「じゃあ。おやすみなさい」
リカがマンションのロビーに入りかけたところを見ながら駅に向かって後ずさる様に歩き出す。
大きく手を振ると、背を向けて歩き出した。
角を曲がる寸前、空井が振り返った先に、まだリカは佇んでいた。
「稲葉さん。お休みなさい。また」
大きく手を振った空井にリカは軽く頭を下げた。
その先に何があるのかはわからなくても、きっとこの週末の時間は、空井の中の何かを動かして、リカの足元を引き留めていた何かを動かした。
週が明けて、完成版のPVを見るのはこの後のお話。
夕焼けを見たい相手と、帰る場所がある自由はまだはるか先に。
――end
こんにちは。
あ〜 なんだかとても暖かい気持ちと
じれったい気持ちと でも、これが
空井さんと稲葉さんなんだろうなぁ
でも とても穏やかになれました。
狐様 いつもありがとうございます
マコ様
このお話はジレジレ期なのに、とっても穏やかで、お互いに意思表示はしなくても幸せな気持ちを抱えていた時間なんです。
こちらこそありがとうございます。
そう言えば・・・いや、次のお話までとっておきましょう(笑)